*たわごとコラム

Tと朝ごはんを食べながら

「これ、だいだいプーかける?」

「だいだいには、プーがつくんだ?」

「呼び捨てにする人もいるよね」

「じゃあ、ゆずプー・・・っていうの?」

「ちがうよ」

「?」

「ゆずは、『ゆずっち』だよ」

「へ〜、じゃあ『ニューサマーオレンジ』は?」

「ニューサマーオレンジさま」

「複数形は?」

「ニューサマーオレンジさま〜ズ」

「へ〜」

「じゃあ、みかんは」

「みかんはみかん」

「なんで?」

「なんでって、なんで?」

「・・・・」

宝物が売れた—その2

フリーマーケットに参加するたびに、出品するものがあります。

クッキーの空き缶に細々したものを詰め込んで、10円とか30円とかいう値段をつけ、店先の端っこに置いておくのです。
地面に敷いたシートの上に直接置いておくことがポイントです。
細々したものというのは、ビーズが詰まった小瓶だったり、色ガラスのブロックだったり、アクセサリーのパーツだったり・・・何かを作った時に出た素材のあまりや、部品などなど。出来合いのおもちゃや雑貨などは一切ありません。
一見ガチャガチャで、でもなんだかちょっとキラキラした、使い道があるようなないようなガラクタです。

このクッキー缶に、毎回必ず子供たちが集まってきます。女の子が多いですが、男の子が来ることもあります。

親御さんと一緒の場合には、子供たちが興味津々に缶の中を覗き込んでいても「そんなもの!」といわれて強制的に連れて行かれてしまうのですが、最近はわずかなお小遣いを与えられて、そのお小遣いで買えるものなら何でも買ってきていいよと言われる子もいるらしく、そういう子供たちがこの缶に興味を示すと、店先にしゃがみこんで延々と中身を眺めているのです。

そういう時は、そっと見守ってあまり声をかけないようにします。

ほとんどの子が、一つ一つのものをじっくり眺め回して、かなりの時間をかけて買うものを選びます。「買う」ということは最初から決めているようなのですが、お小遣いの計算をしながら、どれを選ぶかじっくりと考えているのです。

本当はプレゼントしてもいいようなものなのですが、そんなことをしてしまうと、むしろその子にとっての大切な時間を奪ってしまうような気がするのです。ですから、プレゼントの代わりに「これをください」といってきたら、「一つ何かをおまけしてあげるから、好きなものを選んでいいよ」と答えます。そうすると、みんなものすごく嬉しそうにして、またじっくりと時間をかけておまけの一つを選ぶのです。

いったいどうしてこの缶がこんなに子供たちを引き寄せるのか、その光景を見ている方も興味津々です。フリーマーケットでは10円20円で売られているおもちゃは他のお店にもたくさんあるので、「安くて少ないお小遣いでも買えるから」という理由だけではないことは確かです。

2.3人の女の子グループで缶を囲んだ場合には、とても姦しくてその会話を聞いているのも楽しいです。

「わ~、コレなんだろう」
「わ~、きれい~」
「こういうの好き~」
「どれがいいかな~」
「青いのきれい~」

今回は男の子もやってきていつまでも缶の中を眺めていました。
程なくご両親がやってきて連れて行かれてしまいましたが、しばらくすると再び家族で現れて、すかさず缶に駆け寄った男の子は中から色ガラスのブロックを選んでお父さんに差し出し、どうしてもこれが欲しいのだとおねだりしました。缶の中の色ガラスが忘れられなかったようです。その子は結局2色の色ガラスを買ってもらって満面の笑みで去って行きました。

ある女の子が誤って地面に撒いてしまったビーズに、子供たちがいつの間にかわらわらと鳩のように集まって、宝探しが始まってしまったりもしました。

とにかく、この缶の周りでは面白いことがたくさん起こります。

 

そんな光景を見ていると、自分がこの子たちと同じ年頃だった頃の、ワクワクした気持ちを思い出します。

宝物箱に集めていたもの・・貝殻、丸くてキレイな石、どんぐり・・・・
お小遣いを握りしめて駄菓子屋さんに行ったときのこと、
近所の旋盤工場の裏に積まれていた、くるくる渦を巻いた金属が見たくて学校の帰りに必ず立ち寄っていたこと、
あの頃のそうしたワクワクした気持ちが、確かにその後の私の心を形作る材料になっています。

おもちゃ屋さんに並んでいる高価なおもちゃやゲームにも、子供たちは同じような反応を示すのでしょうか?
私にはよく分かりませんが、少なくともこの缶を覗き込む子供たちの様子を見ていると、与えるおもちゃを考え直したほうがいいのではないかと思えてきます。
完成形のものよりも、想像や創造の材料となるようなものにめぐり合わせてあげたほうが良いような気がするのです。

宝物が売れた—その1

先週末、数年ぶりに地元のフリーマーケットに参加してきました。

 

第一の目的はもちろん家の中の不用品を整理することなのですが、

毎回色々な出会いや発見があって、いい思い出にもなるので、我が家では数年に一度の恒例行事になっています。

 

今回は叔母の友人からの委託品がありました。

 

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『手鞠』というのでしょうか、私が子供だった頃近所のおばあさんが作っていたので、

久しぶりに目にして懐かしさを覚えました。

当時は今よりもずっと作り手が多かったのではないかと思います。

 

とにかく、作ることそのものが楽しくて続けているので、作品が増えてしまって困る・・・・ということでした。

もちろん商売にする気もないし、捨てるのも勿体無いからフリーマーケットで売って欲しいというのです。

 

当日は朝一番からこの『手鞠』を見て、たくさんの方が足を止めてくださいました。

「懐かしい」という人。

思い出話を聞かせてくれた人。

「今はものすごく高く売られている」と教えてくれた人。

作り方を教えてくれた人・・・・

 

一番印象的だったのは、値引き交渉もせずに一つ買ってくれた青年でした。

年齢的には20代前半といったところ・・・何かものづくりをやっていそうなアーティスト風のオーラを放っていました。

 

青年はものすごく興奮した様子で一つ一つの作品を眺め回し、

「わ~、これどうやってつくるんですか??」

「中に何が入っているんですか??」

「この模様はどうやって出すんですか??」

「これ、正式名は何て言うんですか??」

矢継ぎ早に質問が飛んできます。

けれども、私が作ったわけではないので子供の頃の記憶をたどっても曖昧な返答しかできません。

そこにちょうどやってきた年配の女性が、その質問の全てに答えてくださいました。

後で聞いた話によると、昔作っていらっしゃったことがあるのだそうです。

 

青年は目をキラキラさせてその女性の話を聞いていました。

私にとっては昔懐かしい『手鞠』でも、その青年にとっては初めて目にするもので、

しかも何かものすごく感性を刺激するものがあったのでしょう。

彼は家に帰ってこの『手鞠』について調べ、そして新しい作品を生み出すかもしれません。

そんなエネルギーが強く伝わってきました。

 

大げさな言い方かもしれませんが、その光景には日本の未来への「希望」のようなものが見えました。

こんな風に、日本の失われつつある「佳きもの」が、次の世代へと伝わってゆけばいいのに・・・

と、ふと感じたのです。

 

何はともあれ、預かったものを、すごく良いかたちで受け渡しすることができたと思っています。

頭の中でリフレインしているメロディー

ここ数日、頭の中でリフレインしているメロディー。

時間に追われてる時ほど、こんなメロディが流れる・・・

♪ 歌を忘れたカナリアは〜 ♪

「歌を忘れたカナリア」

日本人であればおそらく、おおかたの人がどこかで聞いたことのあるフレーズ。
童謡「かなりあ」(詩・西条八十)の歌詞の一節で、歌える人も多いと思います。

♪ 歌を忘れたカナリアは〜 ♪

私も、どこで習ったのかメロディを知っているのですが、
いざ歌ってみると一番しか思い出せませんでした。

♪ 歌を忘れたカナリアは~ ♪
♪ 後ろの山に棄てましょか ♪
♪ いえいえ それはかわいそう ♪

ここだけ歌っていると、なんだか悲しくて、残酷な歌です。
歌を忘れただけで山に棄ててしまうなんて。

改めて調べてみると4番までありました。
2番3番はさらに残酷です。

♪ 歌を忘れたカナリアは~ ♪
♪ 背戸の小薮に埋けましょか ♪
♪ いえいえ それはなりませぬ ♪

♪ 歌を忘れたカナリアは~ ♪
♪ 柳の鞭でぶちましょか ♪
♪ いえいえ それはかわいそう ♪

これは、最近「本当は怖い」と取りざたされている昔話や童話の類と同じなのでは?と勘違いしそうになりました。

この歌は4番に真意が込められていたのです。

♪ 歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい ♪
♪ 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す ♪

4番まで聞いて初めて、この歌の意味の深さを知ることができます。
忘れていたとはいえ、なんとなくでも1番だけを繰り返し歌っているのは、
まさしく「歌を忘れたカナリア」と同じ。

あるべき場所に立ち帰れば、再び美しい歌を思い出すことができます。

久しぶりに4番を思い出し、優しい気持ちでこの歌を歌えるようになりました。
改めて、「歌を忘れたカナリア」の意味を考えながら。

♪ 歌を忘れたカナリアは~
♪ 後ろの山に棄てましょか
♪ いえいえ それはかわいそう

♪ 歌を忘れたカナリアは~
♪ 背戸の小薮に埋けましょか
♪ いえいえ それはなりませぬ

♪ 歌を忘れたカナリアは~
♪ 柳の鞭でぶちましょか
♪ いえいえ それはかわいそう

♪ 歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
♪ 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す

出会ってしまったんですよね、モロッコで。

「ヘタウマ」という表現は、いつ頃できたのでしょう。
私が子供の頃には、なかったような気がします。
調べてみると、ちゃんとWikipediaにも項目がありました。

「技巧の稚拙さ(つまり「ヘタ」)が、かえって個性や味(つまり「ウマい」)となっている様を指す言葉。」

さらに「明確な痕跡を残しておらず、誰が、いつ頃から、どういう必然性で、いかなる理論を基に生み出されたかは不分明である。」と記されています。

受け手の主観によるところが大きいため、明確な定義は存在しないそうですが、
確かに、何をもってして「ウマイ」といい、何をもってして「ヘタ」というのか、明確な基準などありません。
みんな「なんとなく」使っているのだと思うのですが、「ヘタウマ」という印象を受ける作品は、やっぱり何かが魅力的で心惹かれるものがあるんですよね。

昔、「ヘタウマ」にまつわるこんな手記を目にしたことがあります。

「『君はヘタな絵が本当にウマイねえ』と上司に褒められました。」

ヘタな絵がウマイ?・・・まあとにかく褒められたのですから、上司の方がその絵を魅力的に感じたのは確かなのだと思います。

絵本の分野にも、そういった作品が確かに存在します。
今となってはそういうタッチを意図して製作されているものがほとんどですから、少なくとも出版社を通して世に出ているものに、単に「ヘタ」な作品なんて存在しないはずですよね。

そう、Wikipediaの表現を借りて言えば、その作品が技巧的に稚拙に見えても、それが個性や味と認められたから出版に至ったのです。

私も、これまでに相当数の絵本を見てきましたが、全くその通りです。
現在は、昔よりもずっと個性や味と認められる範囲が広くなっていて、既成概念の枠を広げてくれるような作品が次々に生み出されています。
もはや、「ヘタ」とか「ウマイ」とか、さらには「ヘタウマ」なんていう表現すらも、そういう定義自体が稚拙なのでは、と思えるくらいです。

ところが・・・出会ってしまったんですよねモロッコで。

 

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「これ・・・もしかして『ヘタ』?」
「いや・・・このタッチを狙っているのかな・・・」
自分のセンサーに耳をすませてみても「ヘタウマ」という感想は聞こえてきません。

あるいは、文化の違いなのかもしれません。

いずれにしても、私はなんだかものすごく楽しい気持ちになって、この絵本を買うことにしました。
こんな絵本が出版されていることそのものが、その国の個性であり、味なのですから。

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子供には解けて大人には解けない

*文末に答えを追記しました。

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店主Bから突然「これ解ける?」と出された問題。
なんでも「子供には解けて大人には解けない」問題なのだそうです。
どうやら、インターネット上で話題になっている様子。

最初に出されたのがこの問題。

*2581=??? ???の数字は?

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*車の下に隠れている数字は?

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これは、なぜかすぐにピンときて短時間でクリア。
ポイントに気がついてしまえば、なんてことない問題です。

 

ところが、小学4年生の普通の算数だというこの問題には結構苦戦しました。

*『3つの正方形の合計面積を求めよ』

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小学生の算数・・・難しい。

う〜ん、やっぱり頭が固くなっているんですかね。

大人になると、子供の頃のような自由な発想がなかなかできなくなりますね。
こんな子供たちの珍回答を見ると、つくづくそう思います。

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なんかもう・・・大爆笑。

 

せっかくなので上の問題の答えは明日、追記しますね。
初めてこの問題を見る方、是非トライしてみてください。
頭の体操になりますよ!

 

 

 

 

 

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【答え】

*2581=??? ???の数字は? 【答え】2

*車の下に隠れている数字は? 【答え】87

*3つの正方形の合計面積を求めよ 【答え】241 ㎠

布の一生

先日、ハギレについてのコラムを書いていて、ふとこんな絵本を思い出しました。

 

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「もぐらとずぼん」です。
「もぐら」というのは、言うまでもなくチェコの人気キャラクター「クルテク」のこと。
プレシャス・ブックスでも以前にご案内したことがあります。

その時の添え書き・・・

「誰かのお家の庭先に洗濯物として干してあった青いズボンを見て、どうしても欲しくなってしまったクルテク・・・悩みに悩んだあげく、糸の材料になる植物を育て、その糸から布を織り・・仲間たちの力を借りて、ついには素敵なズボンを作り上げます!
えらいっ!!どこの誰が、ズボンが欲しくなったからといって、糸の材料になる植物から育てようなんて思うでしょうか! この絵本は、夢を叶える方法を教えてくれているのです。」

服を自作する人は結構いると思いますが、糸から作る人は稀です。
クルテクのように服を作ったら、少しぐらい古びてきてもその服を簡単には捨てられないでしょうし、
作る過程で出たハギレさえも大切にすることでしょう。

パッチワークなど、ハギレを使った小物作りのアイデアはたくさんありますが、
なるべくハギレを出さず、布を使い切るようなデザインの服を作る・・・という考え方もあって、
実際にそういう服作りをする人を何人か知っています。その人たちは皆、
手織りの布を使っていたり、布を作る人たちと共に歩んでいます。

布を無駄にしない服といえば、日本の着物はまさにそういう作り方をします。
作る段階でハギレが出ないだけでなく、着古した後も他のものにリメイクしやすく、
昔の人は雑巾になるまで使い切ったといます。

私の母は洋裁も和裁もできる人でしたが、布どころか糸さえも大切に使い切っていました。
昔の人は皆そうだったのかもしれませんね。

断捨離ブーム?も手伝って、世の中に古着が有り余っているそうです。
ハギレどころか、服そのものが大量に捨てられているのです。
昔は物資に困っている国に送られることもあったようですが、
今や古着はもういらないと断られることが多いというニュースを目にしました。
大量に流入する古着に市場を奪われて、途上国の零細な繊維産業が破綻している例も多いそうです。

断捨離が終わったら「もぐらとずぼん」を開いてみませんか?
きっと何かをリセットできると思います。

捨てられないハギレ

先日ブラウスを自作した時に出たハギレ。
こんなに小さいと小物作りに流用するのも難しそうですが・・・捨てられません。
ビンボーショウ?

よくよく見ると、綺麗なんですよね〜。

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この布地は、なんと25年以上も前に入手してそのまま保管してあったもの。
基本的にものを作ることが好きなのですが、
当時は時間的に余裕がなくて、好みの材料を見つけて購入しても、
なかなか形にすることができませんでした。
それを今頃になって引っ張り出してきて再利用?しているのです。

これはインドのマドラス(今はチェンマイ)で生産されているマドラスチェックと呼ばれる綿生地で、
縦糸と横糸がまさに色々、それらが交わってさらに違う色を織りなしています。
ところどころに織りムラやネップがあり、洗うと豪快に色落ちしてしまうのですが、
肌触りが良くて、涼しくて、この生地で服を作るととにかく着心地が良いのです。
25年前は布地屋に行くと必ず定番のように何種類かは置いてありましたが、最近はそれほど見かけなくなりました。

何年かぶりに保管してあった生地を広げてみたら、インドのお香?のような匂いがしました。

この香りはどこでついたのかしら?
昔のインド綿は天然染料で染められたものも多かったのですが、まさかそこまでのものではなさそうだし・・・
現地の工場でお香が焚かれていたとか?
他のインド製品と一緒に輸送されたとか?

かつてインドに行った時に垣間見た、かの国の人たちの働く姿がが脳裏に浮かびます。
ハギレを眺めながら、南インドを一巡り。

その後たまたま宮脇綾子さんの作品集を開いて思いました。
宮脇さんだったら、もちろんこのハギレを大切にとっておくことでしょう。
そしてきっと、何かの作品に使ったはずです。

そんな気持ちでもう一度このハギレを眺めたら、まぶたの裏に一瞬、夕暮れ時の水平線が浮かびました。

物語の入り口

同じ市内の某所・・・
通りかかる度に気になります。

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けれど、足を踏み入れてしまったら同行の家族が豚さんになってしまうとか、
戻ってきた時には老人になってしまっているとか、
あるいは二度と戻って来れないとか・・・・

そんなイメージばかりが膨らんで、なんとなく近寄りがたいのです。

このポストに投函した手紙は、いったいどこに届くのでしょうか?

思いが詰まった古本屋

昔のアルバムを整理していて目に留まった古本屋の写真。
ポルトガルの小さな村で偶然見つけた店です。

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「小さな村」にしてはかなり大きな店で、足を踏み入れた瞬間「わ〜っ」声を出して驚いたのを覚えています。
壁一面に無数の木箱が打付けてあって本がぎっしり詰め込んであり、
店の真ん中には平積みの本が並んだ大きなテーブルと座り心地の良さそうなチェア。
何故か入り口近くで新鮮な野菜が売られています。
カウンターで、おそらく店主であろう若い男性がせっせと本の整理をしていました。

店の隅々から、店主の思いが伝わってきます。

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この店に込められた「情熱」を感じながら想像してみました。

  店主はこの小さな村を気に入ってここに移住して来た。
  そして、大好きな本に囲まれて暮らすという夢を実現させた。

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日本でもそうですが、こういう古書店は個人経営であることがほとんどです。
実現するには、大きなパッションとエネルギーが必要で、
おのずとそこにはオーナーが綴った「物語」がカタチになって表れています。

この店には、そういう物語がたくさん詰まっているように見えました。

古書店だけではありませんが、思いが詰まっている店はそこを訪れる人の思い出に残りやすいのです。

「愛」のコラム

久しぶりに開いたノートに、新聞の切り抜きが挟んでありました。

2014年11月1日、東京新聞1面のコラム欄「筆洗」。

▼『氷点』などで知られる作家の三浦綾子さんが七十七年の生涯を閉じたのは、十五年前の秋のことだった。愛妻の命の終わりを告げられた時、夫の光世さんはこう語りかけたという。「では、また会うまで。さようなら」
▼綾子さんは二十四歳で結核を発病し、十三年間も病床にあった。絶望のふちにあった彼女は、敬虔(けいけん)なキリスト教徒の前川正さんの誠実な愛に救われたが、その彼も結核で逝った
▼<妻の如く想ふと吾を抱きくれし君よ君よ還り来よ天の国より><癒えぬまま果つるか癒えて孤独なる老に耐へるか吾の未来は>。そんな歌を詠んでいた綾子さんを受け止めたのが、光世さんだった
▼綾子さんの自伝『道ありき』には、光世さんの求婚の言葉が書きとめられている。「あなたが前川さんのことを忘れないことが大事なのです。綾子さん、前川さんに喜んでもらえるような二人になりましょうね」
▼光世さん自身も病弱だったが、綾子さんが作家になることを後押しした。度重なる病で筆を執れなくなった妻のため、口述筆記も続けた。「三浦文学」は、そうしてつむぎ出された
▼光世さんはおととい、九十歳で逝った。愛する妻が先に眠るその墓碑には、二人の短歌が刻んであるそうだ。<着ぶくれて吾が前を行く姿だにしみじみ愛し吾が妻なれば>光世。<病む吾の手を握りつつ眠る夫眠れる顔も優しと想ふ>綾子

歌を聴いても、映画を観ても、そこかしこに愛、愛、愛・・・愛があふれています。
「愛」という言葉には手垢が付き過ぎて、陳腐に響いてしまいがちです.
けれど、このコラムに記されているものは「愛」だと、確かに私の心が震えたのでした。

備忘録として、ここに書き留めます。

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