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“たわごと”コラム

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コラム・プロローグ

時々TOPページに掲載している“たわごと”コラムのデータストックです。



 28日にリンクさせていただいたホームページ「The Green Ship」を訪れて、久しぶりに2册の絵本をもう一度読みたくなりました。1册はホームページのタイトルにもなっている クェンティン・ブレイクの「みどりの船」。もう1冊はユードリーの「木はいいなあ」です。「みどりの船」は子どもたちが庭木を大きな船に見立てて遊ぶ物語。「木はいいなあ」は、木ってほんとうにいろんな「豊かさ」を与えてくれるんだよ・・っていう絵本。 木をテーマにした絵本は、他にもたくさんありますが、この2冊は私のお気に入りです。もう1册あげるとすれば、定番中の定番ですがシルヴァスタインの「おおきな木」でしょうか。こちらは「The giving Tree」という原題が示す通り、無条件に自分のすべてを与え続ける木の話。
 実は、うちの南側に畑があってそこに大きな柿の木がたっているのですが、駅前開発のあおりを受けて、2.3年後には切り倒されてしまうことが決まっています。畑の持ち主であるおばあちゃんは「あたしがここに嫁にくる前からあったんだよ・・・」と淋しそう。この木には虫や鳥など(たまには猫なんかものぼったりしてます)たくさんの動物たちが集まってきます。秋にはたわわに実を付け、落ち葉は畑を肥やします。仕事でコンピュータの前に座りっぱなしになることの多い私は、窓の外に見えるこの木に毎日どれほど癒されているか分かりません。この木がどんなに多くのものを与えてくれてきたかということは、駅前開発の計画にはまったく加味されないんですよね。
 例えば、開発の責任者が子どもの頃、 「みどりの船」
や「木はいいなあ」や
「おおきな木」を読んでいて、それをちゃんと心の本棚にストックしていたなら・・・この柿の木の運命は変わっていたかもしれない。なんて、考えてしまうのです。

「The Green Ship」
  http://homepage2.nifty.com/greenship/index.htm

 大きな木の木陰でゆっくり絵本を読んでいるような
  気持ちになれるサイトです。



 先日お客さまから、ロシアや東欧の文化に傾倒されているというお話を伺いました。そこで、今回はこんな本をご紹介してみようかと思います。リブロポートから出版された「ソビエトの絵本1920-1930」。巻頭に“1989年スイスで開催された「スイス子どもの本展」の紙上再現を試みたもの”とあります。
  1917年のロシア革命は、絵本の世界にも多大な変革をもたらし、その後1920〜30年代に同国で出版された絵本は、後人にはかり知れない影響を与えたといわれています。当時のソ連では、自国の発展のために子どもの教育を最重要視すべきだと考えられており、国家事業として良質の絵本が出版されました。
  この本はページ数142ページ、今日なかなか目にすることのできない旧ソ連の古い絵本が、カラー図版で多数紹介されています。社会主義国家の成熟した文化から生み出された絵本にはやはり、アメリカやヨーロッパの絵本にはみられない独創性を感じます。ちょっと手に入りずらい本ですが、図書館などで見ることができるかもしれません。かなり見ごたえのある本なので、興味のある方は是非手にとってみてください。プレシャスブックスの書庫にも、巡ってきてくれるとよいのですが・・・

「ALL SMILES」、なかなか素敵な写真集です。序章にこんなメッセージが掲載されています。

  人生を、生きることを
  最も実り多きものにしてくれるもの。
  最も安価で、効果は最大
  それは、喜びに満ちたほほえみ。

  それは、気高さ、やさしさとともに
  価値と善良さにも満ちていて、
  100万ドルにも値し
  実は1セントもかからないもの。


何はともあれ、笑ってみようかな。


 本日はわたしの宝物紹介・・・・                       NO.3

「The sence of wonder - センス・オブ・ワンダー」

 私はこの本を宝物にしています。本そのものというよりも 、
「The sence of wonder」という言葉に著者レイチェル・カーソンが託した意味を・・・
 ご存じの方も多いと思いますが、レイチェル・カーソンは「沈黙の春」という著作で、世界に先駆けて地球環境汚染に警鐘を鳴らした女性科学者です。「沈黙の春」は『歴史を変えることのできた数少ない本の一冊』と称される程、世界中に波紋を広げました。
 「The sence of wonder」は、そんな彼女がガンに冒され、自分に残された時間が少ないと悟った時・・・つまり最後に手掛けた遺作です。

 「The sence of wonder」とは、この本の中で「神秘さや、不思議さに目をみはる感性」と訳されています。また、こうも書かれています。 「美しいものを美しいと感じる感性。新しいものや、未知なるものに触れた時の感激・・・」
 彼女は、母親を病気で失った5歳の甥子を引き取って 育てているのですが、この本はその子と一緒に、海辺や森を探検し、木や星や、空を眺めた経験をもとにまとめられたエッセイです。

「もしもわたしが、すべての子供の成長を見守る善良な妖精に話しかける力を持っているとしたら、世界中の子供に、生涯消えることのない「The sence of wonder」を授けて欲しいとたのむでしょう。この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、私たちが自然という源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることに対する、変わらぬ解毒剤になるのです。」文中より

  一方で地球環境汚染の実体を、当時誰よりも深く理解していた彼女は、多くの子供たちに生涯消えることのない「The sence of wonder」が宿ることこそ、この星が唯一救われる方法なのだと悟ったに違いありません。
(その子は将来、街を作るために大きな木を切るか切らないかを判断する、都市開発事業の責任者になるかも知れないのです。)

 わたしはいつも、このキーワードをお守りのように持ち歩いて、例えば絵本を選ぶ時も、この感性をもとに制作されたものは、即買い・・・です。絵本だけではなく、芸術の分野においても、科学の分野においても「The sence of wonder」がインスピレーションの源泉になっていますよね。
  また、そんな大それたことだけではなくて、日常生活の中でもこの感性で物事を見ると、なかなか楽しいのです。
例えば・・・
 植物はどうして茎や葉っぱまでは緑なのに、
   花はいろんな色で咲くのだろう・・・
 この星は今、宇宙のどの辺を巡っているのだろう・・・
 わたしが見て赤だと思っているその色は
    あなたにとっても本当に同じ赤なのだろうか ・・・
 赤ちゃんは、どうして満月の夜に多く生まれるのだろう・・・
 なぜガラスや水はそこに在るのに、透き通っているのだろう・・・
 光がやってくる空には、ぜんぶの色があるのだろうか・・・
 こんなにたくさんの人がいるのに、どうしてわたしは、
    あなたに出会えたのだろうか・・・

 人は大人になると、人生はファンタジーなんかではなく、世界には不条理なことや、理解できないようなことが溢れているのだと気付きます。たまに「こんな世の中!」と叫びたくなるようなこともあるけれど、「The sence of wonder」があれば、この世界もまんざらじゃないな・・・と思えてきたりするのです。・・・

 


 
No.4

 商品として絵本をご紹介する場合は、在庫しているものの中から選ばなければならず、ちょっとストレスを感じますが、コラムでなら、どんな本でも取り上げられるのがいいですね。本日も調子に乗って、わたし自身が気に入っている絵本の紹介です。

「雨 、あめ」- ピーター・スピアー作

 昨日 「The sence of wonder」を宝物にしているというお話をしました。ピーター・スピアーの作品「雨、あめ」は、まさに 雨に対する「The sence of wonder」を描いています

 ストーリーは、姉弟が庭で遊んでいるところに、突然雨が降り出してくるところから始まります。二人は大急ぎで家に入りますが、お母さんにレインコートを着せてもらい、長靴をはいてすぐにまた外に飛び出してゆきます。
 水玉のついた電線、屋根から流れ落ちる水、レースのようになったクモの巣、水たまりに次々にできるたくさんの輪・・・・雨が風景の中につくり出すさまざまな表情を、二人は発見し、楽しみます。
 この絵本がすごいのは、そこに留まらないことです。
 雨あしが強くなって、二人は家に戻ります。ぬれた服を脱いで、あたたかなお風呂に入り、時々外を眺めたりしながら家の中で遊びます。窓は湿気で曇っていて、触れば手の跡がつきます。
  やがて夜になり、街灯の回りだけに雨の筋がくっきり浮かび上がっています。ベットの中に入ると、屋根にあたる雨の音が、部屋中にさらさらと響き初めます。
 そして・・・夜のうちに雨が上がり、翌日は快晴。二人が起きて庭に出てみると、辺り一面がキラキラと輝いているのです。
 この本を手にした人は最後のページで、二人とともに、晴れた雨上がりの朝の、あの空気のにおいを感じることが出来ます。例え窓の外が梅雨空でも、思わず深呼吸してしまうに違いありません。
  そして、子供のころに感じていたあの雨を、とてもリアルに思い出すことができるはずです。

 
 ピーター・スピアーは、細部を繊細に描きあげる作家です。子供のころの「The sence of wonder」が消えてしまっていたなら、こんな絵本は描けないと思います。ちなみにこの絵本には言葉がでてきません。絵だけでこれだけのことを表現できるなんて、驚異的だとわたしは思いました。
 
 7月上旬梅雨のまっただ中、「洗濯物が全然乾かないよ〜」「今日は、革靴だとだめかな」「あ〜うっとうしい」なんて、最近そんなことばっかり感じてたなぁ、とちょっと反省。

詳細はこちらで


 
No.5

 今週でやっと、徹夜続きだった仕事に一段落がつきます。週末は思いっきり眠っちゃいます。わたしの身体のことを気づかってくださったみなさん、本当にありがとうございました。暑くなったり、肌寒くなったりの季節ですので、どうか皆さんも、風邪を引いたりしませんように、十分に気を付けてくださいね。体調を崩している子供さんたちも、 早く元気になりますように。
 2日前、昨日に引き続き、まるで連想ゲームのように本日も本の紹介です。

「メメント・モリ」- 藤原新也

 2日前のコラムで「The sence of wonder」は“本”そのものというよりも、タイトルに込められた意味を宝物にしている、というお話をしました。実は私には、同様の本がもう一冊あります。それが、藤原新也氏の「メメント・モリ」。
 この本を知っている人は、 このサイトでなんでこんな本を紹介するの?と疑問に思われるかも知れませんね。確かにこの本は、子供と一緒に楽しめるものではありませんし、ある意味で絵本の対極にある本かも知れません。パラパラとめくっただけで、本能的に避けてしまう人もいるでしょう。

 この本は、長年に渡りアジアを旅してきた藤原氏が、旅の先々で撮った写真に自らコメントを付けたフォトエッセイです。「メメント・モリ」とは、もともとラテン語の宗教用語で「死を想え」「死を忘れるな」・・・というような意味があります。

 私はこれまでに2回程、死を覚悟したことがあります。初めはもう 15年以上も前のこと、それから一度持ち返し、数年後にまた悪化して倒れました。絶えまなく襲いくる苦しみからなんとか逃れたいと、ただそれだけを考えるばかりの長い闘病生活が続きました。肉体を生かしておくこと以外には、何にもできない日々でした。
 なんとか元気になって自分の足で久しぶりに近くのスーパーに買い物にいった時、こんなことができるなんて、なんて幸せなんだろうと思いました。朝まで一度も目覚めずに眠れた時も、寝返りを打てた時も・・・元気な時には当たり前だったことが、何もかもありがたく、感動的ですらありました。失ってみて初めて分かったんですね。ありきたりな日常が、実はどんなに奇跡的で、感謝すべきことなのか。

 今ではすっかり良くなって、徹夜はするは、暴飲暴食はするは・・(笑)のど元過ぎれば何とかでです。けれど、時々その頃のことを思いだして、ちょっとは無理のきく身体になったことを感謝します。そして、いつも思うのです。『人間なんて、いつ何があるか分からないなあ、たとえ何もなかったとしても、必ず死は訪れる』

 変な言い方になりますが、死んだらもう、生きられません。今日こんなに元気でも、明日もそうだという保証はどこにもありません。たとえ死ななくても、肉体が動かなくなれば、今当たり前に出来ていることは、当たり前ではなくなります。

 そんなふうに思うと、“今”この時が、なんだかかけがえのないものに思えてきます。何でもない平凡な一日が、 そのまんま貴重に思えてきます。動けるうちに、やれる時に、やりたいことをやっておこう。とも思います。私の場合、死を見つめ、受け入れた時、はじめて“生きる”ことにスイッチが入ったのです。

 今は元気になりましたので、全てがついつい“当たり前”になりがちです。 「メメント・モリ - 死を想え」、私にとってそれは「今を大切に生きる」という思いを引き起こすキーワードです。

 ミスチルさんもこの本に感化された曲を発表されてるらしいですね・・・
 
 ところで、このコラムの冒頭のご挨拶・・・私にとっては単なる社交辞令ではありません。相当念がこもってますよ〜。 やっぱり健康第一です。


 この本には何枚か、死を撮らえた写真が掲載されています。が、それらの写真は「死は誕生と同じ数だけ存在する自然現象であって、是でも非でもない」ということが感じられるものばかりです。実際に 藤原氏のコメントにこんなものがあります。
「死は病ではない」

「メメント・モリ」の一部を氏のオフィシャルサイトで見ることが出来ます。もしもご興味がありましたら・・・
●藤原新也オフィシャルサイト
 http://www.fujiwarashinya.com/main.html

詳細はこちらで


 
No.6

 今日のさいたま市は梅雨の中休み。蒸し蒸ししてて暑いけど、久しぶりの晴れ間に“やる気”が出ました。先週忙しくて出来ずにいたことを一通り済ませて気分もスッキリ。 気分なんて、お天気に左右されちゃう程、心もとないものなんですね〜。(それは私だけ?)

「トイレに貼った子犬の写真」

 昨日のコラムで、過去に2回死にかけたというお話をしました。今は元気に暮らしていますが、最悪だった時期・・・まったく回復の兆しが見えずにいた時は、まるで夜の広大な砂漠をさまよっているような精神状態でした。

 生きる気力を失っていたので、「〜したい」というような“望み”は何もありませんでしたし、食欲のような最も本能に近い欲求さえも薄れていました。 大好きな本さえ手にとる気力もなく、何を見ても何も感じない、心が動かない・・そんな状況でした。そうやって感覚のスイッチを切って、苦しみから逃れようとしていたのかも知れません。
 しかしそれは、生きながらにして死んでいるのも同前で、もしかしたら身体の奥で微かに働いているかもしれない自然治癒力さえも、完全に封じ込めてしまうような悲しい悪循環を生んでいたに違いありません。
 頭では、もっと前向きにがんばらなければ“回復”も望めないと分かっていました。けれど、そう思えば思うほど空回りするばかりだったのです。

 苦境に立つ人に、あーした方がいい、こうすればより良くなると、示唆を与えようとする本は巷に溢れています。例えば「ポジティブ シンキング」に関する本。前向きな思考は、建設的な結果を生む・・・まったくその通りだと思います。けれど、ポジティブになること自体が困難な時もあるのです。じゃあどうすればいいのか? 真の苦境に立つ時、このての本が救いになるとは、いまだにどうしても思えません。

 そんな最悪な状況だったあるとき、写真好きな弟が、一枚の子犬の写真を、なんの気なしにに見せてくれました。本当になんでもない子犬の写真です・・・それを見てとっさに「なんてかわいいんだろう」と感じました。そして、自分の心が動いたことに驚きました。ああ、私の心もまだ動くんだと・・・

  私はその写真をもらって、トイレに貼ることにしました。トイレだけは自力でいっていましたし、横になれずベットに入らない日もあったからです。その写真を見るたびにちょっとだけ心が動く、そんな自分自身の心の動きが、救いになりました。真っ暗な砂漠の真ん中で、小さなろうそくの灯を見つけたような感じです。その小さな灯を消してしまわないように、細心の注意を払いました。その時の私には、他に何もなかったのです。大袈裟に聞こえるかも知れませんが、事実です。

 そのことを切っ掛けに、ほんの微かでも、心が無条件に、明るい方へ、暖かな方へと動くものに目ざとくなりました。本当に本当にささやかなものでいいのです。それが無条件に心に響くものであるなら・・

 その後トイレの壁は、子犬の写真だけでなく、新聞の切り抜きや、スナップ写真やら何やらで、いっぱいになりました。それに伴って、少しずつ回復の兆しが見え始め、ベットに横になれるようになってからは、小さなベアや、絵本や、花や・・・いろんなものを部屋に置くようになりました。実をいうとそれまでの私は、昔から引っ越しばかりしていたこともあって、モノを持つこと自体が好きではなかったのですが・・・

 真っ暗な砂漠の真ん中で、小さなろうそくの灯はなんともたよりなく、命の危機を感じてさまよう遭難者なら、それを見つけて「これで助かった!」なんて思うはずもありません。けれど、広大な闇に囲まれて、その灯を無視することもできないはずです。いつ消えてしまうか分からないような小さな灯でも、たくさん集めると、それなりに大きな光になります。

 絵本でも、音楽でも、誰かとの出会いや、花を見て綺麗だなと思う感覚や、誰かの素敵な言葉や、 なんだかいいなーと思う出来事でも・・・とにかく無条件に、暖かい気持ち、やさしい気持ち、元気な気持ちにさせてくれるものはどんなものでも、この小さなろうそくの灯だと私は思っています。

 ひとつひとつは他愛もなく、命の危機が迫る遭難者を救えるものではありません。けれど、大きな闇の中でそれは心のよりどころになり、生きる力を与えてくれるのです。

 私はひ弱な人間なので、すぐに疲れるし、へこたれるし、落ち込みます(笑)・・・だからどうしても必要なんです、そういうものが。こんなサイトをやっているのも、私自身がより多くの、本という灯との出会いを欲しているからだろうと思います。


 今日のコラムはちょっと長くなってしまいました。本の紹介が最後になってしまいましたが、右上に表紙写真を掲載している本はどちらも「決定的な笑いの瞬間」ばかりを集めた写真集です。子供と一緒に見るもよし、一人で楽しむのもよし、「自分が今、暗闇をさまよっている」と感じているなら、何も考えずに見ただけで笑えるこんな本もお薦めです

Life Smiles Back
>>詳細はこちらで


Life Laughs Last
>>詳細はこちらで


 
No.7

 今日は七夕ですね。我が事務所には土日も祝日もなく、眠そうな顔した輩が「七夕♪バ〜タバタ〜♪」などと鼻歌を歌いながら仕事をしています。 うわ〜、せつないな〜 。それでも、願いごとを書いた短冊を作って、笹がないから観葉植物のベンジャミンにぶら下げました。うわ〜、それもせつないな〜。

「夜と霧」- V.E.フランクル

 またまた昨日のコラムの続きで、本を紹介してしまいます。

 元気になった私は、ついに本を手にとるようになりました。そしてその時こう思いました。「読みたい本があるって、幸せだな〜」
 『本を読みたい』 そんな気持ちすら消えてしまっていたんです。
 
 その時の私は
「人がどうして、耐えがたいような苦しみの中にあっても生きようとするのか。なぜ生きられるのか」ということを考えていました。闘病中の私は「こんなに苦しいのなら、死んだ方がましだ」と何度も考えてしまった弱虫毛虫で、もしもその時に「生きる力が湧くような何か」に予め気がついていたなら、もっと前向きにその時期を乗り越えることが出来たかも知れないと思ったからです。

 「夜と霧」はそんな時に出会った一冊・・・
 実際に囚人の一人だった、ユダヤ人の精神学者フランクルによる、ドイツ強制収容所の体験記録です。
  この本は収容所内で現実に行われていた残忍行為の詳細な記録であるとともに、精神学者である彼が見た、極限状態における人間の記録です。
 彼は自ら囚人の一人として 、極限的な苦しみの中にありながらも、魂の尊厳を失わず、冷静に自分を含めた囚人たちの心の動きを観察していました。

 この本を、一言でかたり尽くすことなどとうてい出来ませんが、私にとって最も印象的だったのは、次のような内容です。

 アウシュビッツ収容所の中は、誰もが「自ら早めに死を選んだ方がましだ」と思えるような圧倒的な絶望の世界だったといいます。そんな中にあっても、夕日を見て「なんて美しいんだ」と感動したり、水たまりに映る風景を見て「まるでレンブラントの絵のようじゃないか」と心を震わせる人間がいたというのです。
 しかも、最後までその絶望に耐え、生き残ったのは、肉体的に頑強な人間でも、精神力に長けた者でもなく、そういった、地獄のどん底にも小さな花を見つけられるような人間だったと、フランクルはいうのです。

 その人は、収容所に入る前、人生のどこかの時点でレンブラントの絵に出会い、感動したことがあったのでしょうね。それは決して、空腹を満たしてはくれなかったでしょうが、結果的には彼の命を支えたのだと私は思います。

 まだ子供だった頃、「将来何になりたいか」みたいなことは、大人に問われて答えてみたりしていましたが、現実に何が起きるかなんて考えてもみませんでした。いつだって、いつの間にか“今”になっていたのです。
 生きていると、いい悪いではなく、いろんなことがあって 、実際どんなことでも起こり得るのだと、大人になった今、しみじみと感じています。どんな時も、自分が自分でいられるように支えてくれるもの・・・それは多分とってもささやかなものだと思うのですが、そういうものに目ざとくありたいと心から思います。


 *この本は、内容的にとてもすばらしいのですが、ちょっと翻訳が難しいのです。 「お薦め!」といっていいのかどうか・・・AMAZONで検索してみたら、たくさんの方がこの本にレビューを寄せていらっしゃいました。とても参考になりますので、こちらはお薦め!です。こちら>>夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録

新版が出版されました
夜と霧 新版


 
No.8

 まるで連想ゲームのように本のご紹介をしてきましたが「メメント・モリ」あたリから、ちょっと重いテーマになってしまいましたので、この辺でブレイクを入れて軌道修正をはかろうかと思います。ま、もともと軌道なんてないんですけどね(笑)。

 本日は、我が事務所に往来する楽しい人々の観察日記。

 本業は自営業ですが、有限会社でもなんでもないので、従業員がいる訳ではありません。事務所にやってくる関係者はみんなそれぞれ個人で仕事をしている人たちで、いつ来るか分からないという意味では神出鬼没です。つまり、必要に迫られた時しか顔を出しません。 逆にいえば、必要に迫られれば夜中にだって現れるとんでもない人々で、時には数日事務所で暮らしてたりする人もいます。
 
 みんな仕事に対してはかなり職人気質なところがあって、 そのせいか、料理やらお茶の入れ方やらラーメンの食し方やら、それぞれにいろいろなこだわりを持っています。
 たまに一緒に焼肉なんか食べにいったりすると「そんなに何度も肉をひっくり返すな〜」と指摘されたりして、「ハイハイ、あなたこそが焼肉大奉行様でございます」と自分の肉を焼くことさえも放棄したりして・・・・

 でも、よくよく見てるとなんか、変わってるんですよね・・・

 以前このコラムで、「大きな真ん丸のおにぎりをこしらえて、それをちゃんとお皿にのせ、わざわざ箸で崩しながら食べるのが好き」という人の話をしたことがありました。
 その人の新たなる“こだわり”を先日発見しましたよ!
 彼はコーヒーを入れるのがとっても上手で、おかげでみんないつだってブレイクタイムを楽しみにしているのです。彼のコーヒーがおいしいのは、やっぱり彼なりのこだわりがあるからで、豆の種類、炒り方はもちろんのこと、フィルターの質にまで気を配っています。カップや、ポット、ドリッパーなどは、予め必ず熱湯で暖めるという念の入れようです。

 ところがですよ、彼はそのコーヒーにつめた〜い牛乳をたっぷりそそいで飲むのです。しかもそうするのが「好きだ」っていうのです。・・???カップはなんのために暖めるのだろう???ま、いっか・・・・・めでたし、めでたし。