*たわごとコラム

桜の奇跡

裏山に住む陶芸家Mさんにお招き頂いて、桜を見に。

これが数日前に届いた招待状。
葉書の中程に「さくら さいた」という文字が浮き上がって見えます。

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前日は強風が吹いて嵐のようだったのに、その日は奇跡のように天気が回復しました。
今年に入ってから何かと忙しかったので、久しぶりの小休止。
強風にも散らずにいてくれた花を、心ゆくまで楽しみました。

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Mさんがこの場所に工房を建てた時、庭に苗を植えたというソメイヨシノ。
30年で2階建ての屋根を越える程の大きさになっています。

自分の家の庭に、実もつけず毛虫にも悩まされる桜の木を植えるなんて
愚かなことだと、周りの人から揶揄されたこともあるそうですが、
その桜が毎年どれほどのものを与えてくれているか、
はかり知れないとMさんは言います。
豊かさとはいったいなんなのか、今のMさんの暮らしぶりを見れば、
かつてそんなことを言った人も考え直すに違いありません。

どんな花も美しいのに、何故桜にはこんなにも“特別”な印象があるのでしょう?
その感覚は、私たち日本人だけが持っているものなのでしょうか?
ここ伊豆半島にも桜の名所がいくつかあって、
開花宣言と同時にものすごい渋滞が起こります。
野を越え山を越え、渋滞にハマりながらも桜を求めて移動する民族なんて、
他の国にもいるのでしょうか?

古い年代の人だけの感覚?・・・と思いきや、
最近、桜の歌のリリースがとても多いですよね。
若い人がこぞって桜の歌を作り、歌っている印象があります。
桜はやはり、老若男女を問わず私たち日本人の魂に根ざした花なのかも知れません。

春の嵐にも耐えた儚げな桜の花が、時を迎えると潔く、はらはらと散ってゆきます。
私たちは、その散り際にも特別な思いを寄せずにはいられません。

逝く空に桜の花があれば佳し   北桃子

という句をMさんが教えてくれました。
北桃子とは、故・三波春夫さんの俳名だそうです。
辞世の句だったそうで、その願い通り、開花を待って旅立ったのだとか。

この句を聞いて、西行法師の句を思い出しました。

願わくば花の下にて春死なむ その如月の望月の頃   西行

Mさんによると、西行法師もまた、その願いを叶えたとのこと。
そしてそれはとても奇跡的なことなのだと教えられました。

この句のように、3月の満月の日、桜を仰げるということ自体が、
なかなか出来ることではないというのです。
考えてみればその通り、ただでさえ短い桜の開花期に満月が重なることは、
むしろめずらしいこと。
もしも暦に恵まれても、その日に晴れていなければ、
その光景を拝むことは出来ないのです。
今年はたまたま三月末に満月の日がありましたが、あいにく天気に恵まれませんでした。
Mさんでさえ、満月に映える桜を見たのは1.2回しかないそうです。

そんな話をしながら桜を眺めていると、
Mさんとの出会いも、この街に越してきたことも、
ここでこうしていることも・・・もう何もかもが奇跡的なような気がしてきました。
全てのことが桜のように、ひと時咲いて散ってゆく。
その“ひと時”が重なって縁を結ぶことは、本当に有り難き奇跡なのだと、
しみじみ思えてくるのです。

この思いも、桜がもたらしてくれたものなのでしょうか?

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