*たわごとコラム

久しぶりに“レイチェル・カーソン“を読みました。

一部紹介・・・

?子どもの世界は新鮮で美しく、驚異と感激にみち溢れている。不幸にもわれわれの多くは、成人する前に澄み切った洞察力や、畏敬すべき美しいものへの直観力を喪失してしまう。もしも私が、すべての赤ん坊の命名式を司るとされている善良な妖精に影響をおよぼすことが出来る立場にあるとしたら、私は彼女が、世界のすべての子供に対して、生涯を通じてこわれることのない驚異の感覚を贈りものとするように求めるだろう。それは、やがてやって来る倦怠と幻滅、人為的なものへの不毛なあこがれ、われわれの力の源泉からの疎遠などに対して確かな解毒剤となるであろう。
 子供たちが、このような妖精からの贈りものに頼らずに生来の驚異の感覚を生き生きと保ち続けるためには、その感動を分かち合えるような大人が少なくとも一人、その子供のかたわらにいて、われわれの住んでいる世界の歓喜、感激、神秘などをその子供といっしょに再発見する必要がある。親というものは、子供の熱心で敏感な心に触れる一方、他方で複雑な物質的世界に接する自己の不十分さを思い知らされる。その世界には、見知らぬ多様な生命がすんでいて、親たちはそれらを体系だった知識にまとめあげる自信を失ってしまう。そしてみずから打ちのめされた気分に陥って叫ぶのだ。「どうしたら私は自分の子供に、自然について教えることが出来るだろうか。私は鳥を識別することさえ出来ないのだ!」と。
 私は、子供にとっても、そして子供を教育しようと努力する親にとっても、「知る」ことは、「感じる」ことの半分の重要性さえももっていないと固く信じている。もしも、もろもろの事実が、将来、知識や知恵を生み出す種子であるとするならば、情緒や感覚は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌である。幼年期は、この土壌をたくわえるときである–美的な感覚、新しい未知なものへの感激、思いやり、憐れみ、感嘆ないしは愛情といった感情–このような情念がひとたび喚起されれば、その対象となるものについて知識を求めるようになる筈である。それは永続的な意義をもっている。消化する能力がまだ備わっていない子供に、もろもろの事実をうのみにさせるよりも、むしろ子供が知りたがるようになるための道を切り開いてやることのほうがはるかに大切である。

初夏の気配

なんだか急に初夏の気配がし始めましたね。
窓から見える山の色が、日毎に濃くなっています。
ツバメの姿も見かけました。

晴れて、降って、晴れて、降って・・・
少しずつ空気のにおいが変わってゆきます。

どこもかしこも花盛りで、移動中に道草ばかりしていました。

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花も団子も

お知らせ

どういうわけか、毎年この季節になるとバタバタします。
いろいろなことが始まったり、終わったり。
春ってやっぱり、そういう季節なんでしょうかね?

店主Aが留守になるため、土曜日から来週中頃まで更新は小休止です。
それ以外の業務がいつも通り・・・店主B&Cがお店番をします。

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店主Cといえば・・・

最近クロッキーは目に見えて元気になりました。
昨秋、失明した時にやむなく使った強い薬の影響が、
やっと消えてきたようです。
いつ行っても、クロッキーのことを喜んで迎えてくれる、
恋犬こうちゃんのお陰かもしれません。

もちろん、今でも散歩の目的地はこうちゃんの家なのですが、
最近クロッキーは、こうちゃんだけではなくて、
こうちゃんの飼い主さんに 会うのも楽しみになっています。
どうしてかというと・・・おやつをくれるから。(苦笑)

もともと犬好きな方なので、クロッキーのことをまるで
息子の嫁のようにかわいがってくれるのです。

今はどちらかというと、花より団子?
いずれにしても、“花も団子も”で、毎日同じ方角へ一目散です。
たかが散歩でも、目的があると違いますね~。
なにせ、行きと帰りとでは足取りが全然違うのですから。
行きはトコトコ、帰りはヨイヨイです。(笑)

ただいまの机上絵本 —「うたがみえる  きこえるよ 」

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原題は「 I see a song 」、初版は1973年で、エリック・カールの初期の頃の作品。
プレシャス・ブックスでは、"センス オブ ワンダー"のカテゴリーで紹介したい絵本です。

翻訳版のタイトルは、原題とちょっと違います。
原題をそのまま訳せば「うたがみえる」の部分だけになるはずですが、
その後に小さな文字で「きこえるよ」が続きます。

理屈では、うたは“きく”もので“みる”ものではありません。
でも、この絵本には見えないはずのうたが描かれていています。
絵は“みる”もので“きく”ものではありません。
でも、この絵本からは聞こえないはずのうたが聞こえてきます。
だから邦題は「うたみえる きこえるよ 」になったのでしょう。

本を開くと・・・
最初に登場してくるバイオリニストは、モノクロで描かれています。
彼が演奏を始めると、その音楽には色がついていて多様に変幻します。
そして演奏が終わると、モノクロだったバイオリニスト自身がカラフルになっているのです。

何を感じるかは全て本を開いた人にゆだねられた文字のない絵本で、
エリック・カール自身が書いたあとがきによれば、
『ある子どもは宇宙の創造について語っているのだといい、
ある図書館員は「この本はなぜこんなにかなしいのですか」と問いかけてきました。この絵本は,音楽だけを描いているのではありません。・・・』とのこと。

『この絵本からどんな音楽が聞こえてくるかな?
』なんていう前置きも、
不要な概念を作ってしまうということですね。

これは、“絵本だからこそ”の作品といえると思います。
逆に言えば、絵本以外の方法では表現できない作品ということ。
それだけでも、名作と呼ぶにふさわしいのではないかと思うのです。

とにもかくにも、私の中では“殿堂入り”の一冊。
表紙を飾っておくだけでも、感覚が刺激されます。

見ているだけでもほら・・・元気になってくるでしょう?

表紙に描かれた顔は、なんとなく、この作品の命そのものというか、
エネルギーというか・・・精・・・のようにも見えるんです。
「うたみえる きこえるよ 」という絵本の精・・・??

なんだか言葉ではうまく表現できません。
そもそも、理屈では説明できない作品なのです。

先日「生きているものの黄色やオレンジ色から元気をもらう」というコラムを書きましたが、
この絵本は全ての色が、間違いなく
“生きて”います。

本屋さんでぜひ
!  >>うたが みえる きこえるよ

お裾分けのお裾分け

ご近所さんからのお裾分け。みかんやネーブルなど全部で6種類。
裏山の畑で採れたのだそうです。

見ているだけで元気になりそうなので、皆さんにもお裾分け・・・
まさに、ビタミン・カラーですね~。

私にとって黄色やオレンジ色は,元気をくれる色なのですが、
だからって、カーテンを黄色に・・・という使い方はどうもダメで、
果物とか、花とか・・・つまり“生きているもの”がいいみたいなのです。

この辺りは柑橘類の産地で、オレンジ色の実をつける樹がたくさんあります。
特に意識はしていないのですが、かなりかなり元気を貰っていると思います。

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お花見

先週末は、花見にお呼ばれ。

裏山に住んでいる陶芸家のMさん宅は、庭に大きな桜の樹があるのです。

犬も一緒に・・・と言っていただけたので、
二人と一匹で、テクテク坂道を登ってゆきました。
たいした距離でもないのに、風景はすっかり山奥。
ゼイゼイ言いながらたどり着くと、それはそれは見事な
満開のソメイヨシノが迎えてくれました。

庭で花見ができるなんて、なんという贅沢でしょう。

「毎年こんな豪華な花見ができるなんて、贅沢ですね~」というと、
「人を呼べる程になったのは、ここ数年のことですよ」とMさん。

なんとこの桜は、20数年前にMさんがここに居を構えた時に、
細い苗木を植えて育てたものだというのです。
あまりにも立派な桜なので、 私はまた、
もう何百年も前からここに生えていたのかと思っていました。
桜って、たったニ十数年でこんなに生育するものなのですね。
ソメイヨシノの寿命は約60年といわれているそうで、
20数年目の樹はまさしく“花盛り”、最も花付きのいい樹齢なのだとか。

桜の寿命って、結構短いんですね。
知りませんでした。
日本の桜の80%を占めるというソメイヨシノは自然に増えることができない品種で、
戦後植えられた多くの樹がそろそろ寿命を迎えているとのこと。

人が介在しなければ、生き続けることができない樹なので、
誰も何もしなければ、いつか消えてしまうのだそうです。

そう思って見ると、それでなくても花期の短い桜がいっそう美しく見えました。

それにしても、一人の人間が、人生のうちで一本の苗木を植えたか植えないかで、
20数年後にはこんなにも現実が変わるんですね・・・

いつも“ただ見せていただいているだけの自分”が、
ちょっとせつなくなるお花見でした。

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