*たわごとコラム
「被災豆腐店にツバメが営巣 取り壊し延期へ」
今日のニュースで・・・
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「被災豆腐店にツバメが営巣 取り壊し延期へ」
東日本大震災の津波で浸水した岩手県宮古市本町の豆腐製造販売業、相澤光一さん(53)方で、2組のツバメのつがいが営巣している。津波で巣を失いツバメにとっても「住宅難」だ。廃屋を分け合って生きる姿に、建物の解体を請け負った業者は「取り壊すのはしのびない」と作業を延期し、巣立ちを待っている。・・・・
1組目の巣からは22日ごろ、4、5羽のヒナが飛び立ったが、2組目の巣からヒナの鳴き声はまだ聞こえない。避難所暮らしを続ける相澤さん夫婦は「どこのつがいか分からないが、せめて今年だけでも我が家でヒナをかえしてあげたい」と目を細める。・・・・
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倒れた老松
いつになく外が騒がしいと思ったら、目の前の道路が大渋滞。
何事かと店主Bが偵察に行ったところ、
国道が通行止めになっていて、迂回してきた車が裏道に押し寄せてきているとのこと。
なんでも、海沿いの老松が突然倒れて道を塞いでしまったというのです。
幸いけが人は無かったようですが、国道135号は上りも下りも通行止めで、
てんやわんやの大騒ぎでした。
海岸沿いに立っていたその松は、樹齢400年。
コンクリートの岸壁とアスファルトの道路に挟まれて、
取り残されたように海を見渡していました。
近くで代々旅館を営むご老人の話しによれば、
開発の度に地元住民が松を切り倒すことに反対してきたのだそうです。
「その声が行政に届いて松が残されたのはいいけれど、その後はほったらかしで、
誰も面倒を見てやらなかった。
相当な歳なんだから、枝が重くなりすぎないように毎年剪定してやるとか、
虫を駆除してやるとか・・・なんにもしなかった。」
折れた松の幹は、中がスカスカだったそうです。
みんなで守ったはずの松。
人はその松を孤独にしました。
コンクリートやアスファルトで囲んで、いろんなものとのつながりを断ってしまいました。
地中で懸命に根を伸ばして自らつながりを作れるほど、松には力が残っていませんでした。
ちなみに、松の寿命は500年~千年とも言われているそうで、
山側にある同年代の松はイキイキしています。
“つながり” を断ってしまったら、命を救ったことにはならないのですね。
梅雨の晴れ間
久々の青空・・・元気が無かったベランダの花たちも、
息を吹き返したようにイキイキしています。
海も山も、まるで深呼吸をしているかのよう。
暑さは苦手のはずなのに、早朝から掃除、洗濯と、
まるで年末の大掃除のように動きまくりました。
もしかすると、この辺りで一番顕著に復活したのは、この私?かもしれません。
昨日までの重たい空気が吹き飛んで、
砂漠の砂が水を吸い込むように、全身が太陽の光を吸い込んでいる感じ。
直接あたらなくても、目から飛び込んでくるエネルギーだけでも相当なものです。
やっぱり太陽は、元気の元なのね。
ま、照り過ぎれば慈雨が恋しくなるんですけどね。(苦笑)
まだまだ梅雨は続くので、
今日のうちに思いっきり吸収して充電しておくことにします。
梅雨明けまでの間、ちょっとした発光状態でいられるぐらい
蓄えられればいいのだけれど。
村上春樹氏のスピーチ 「日本人は核(原子力)に対してNoを叫び続けるべきだった」
6月9日、村上春樹さんがスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で行った
スピーチが大きな話題になっています。
有名な人であればあるほど、発する言葉の影響力も大きくなるので、
保身のみを考えれば、どんな意見を持っていようと「だまっているのが一番」
ということになりがちです。
にもかかわらず、村上春樹さんのような立場の人が、
国際的な舞台で、あえてこうした発言をしたその覚悟の大きさを、
私たち日本人は特に、深く慮る必要があると思うのです。
また、流暢な英語を話す村上さんが、あえて日本語でスピーチをされたことにも、
意味があると思えます。
このスピーチには「非現実的な夢想家として」というタイトルがついています。
<スピーチからの抜粋>--------------------
我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。
‡
日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。
この部分を読んで、私すぐに、ジョン・レノンの「イマジン」を思い出しました。
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one君は僕のことを単なる夢想家だと言うかもしれない
でも、僕独りじゃないんだ
君もいつか、僕らに加わってくれるといいな
そして世界は一つになるんだ
私自身は、このスピーチにとても感動しましたが、
翌日には「村上春樹氏のスピーチに賛否両論」というニュースが流れました。
どのような意見にも、賛否両論があるのは当前のこと。
全ての人が同じ意見に傾くことは危険だ、とする教訓もあります。
けれども私には、このスピーチを【否】とする意見の意図が、
よく理解できないのです。
人類の過ちを省みて、
国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ろうとする人と
今尚、原子力のようなもので未来の豊かさ?を築こうとする人
いったいどちらが「非現実的な夢想家」なのでしょうか?
ことだま
私は「言霊」を信じています。
「言霊」—日本人なら誰でもなんとなく知っている言葉だと思うのですが、
こうして漢字で書くと、ちょっとミステリアスな印象がありますね。
wikipediaで意味を調べてみました。
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「言霊—ことだま」
言霊(ことだま)とは、日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。
言魂とも書く。
声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、
良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。
日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸(さき)はふ国」とされた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E9%9C%8A
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言霊学という学問もあるそうで、本来とても奥深い世界のようです。
けれども、私が日々感じている「ことだま」は、そんなに難しいものではありません。
「信じている」というよりも、ほとんど「実感している」に近い感覚です。
「明るい言葉を発していると元気になるし、暗い言葉を発していると元気がなくなる・・・」
そんなの当たり前だよね~・・・というレベルです。
でも、これがなかなか侮れません。
自分の発した言葉がどういう結果を生むかを常に注意深く観察していると、
だんだん分かってくるのです。
「言葉には霊的な力が宿る」とか、そんな大それたことではなくて、
もっと、物理的、現実的に、言葉が現実に影響を与えるということを。
「言ったことは実現化する」なんて、まるで呪文か魔法のように言われるけれど、
人は言葉に少なからず影響を受けますし、そう考えれば、
言葉によって現実が変化するというのは、至極当然なことですよね。
となるとやっぱり「どんな言葉を発するか」が重要になってきます。
うかつに発した言葉が、とんでもない現実を呼び寄せてしまったりするかもしれません。
そんな実感がつのって、言葉選びには充分気をつけなければ、
と真剣に思うようになりました。
ちなみに、ありきたりでシンプルな言葉ですが心からの「ありがとう」には、
とても大きなことだまが宿っているような気がします。
「ありがとう」という言葉から、暗い現実が生まれることがあるでしょうか?
たくさんの「ありがとう」が交わされる国は、
まさに「言霊の幸はふ国」という感じがしますよね。