*たわごとコラム

今年もいろいろありましたね。

今年もいろいろありましたね。
初詣で思いっきり平和を祈願したのにな~。(苦笑)
もちろん、毎年祈願しているけれど、
来年もきっと・・・
というか当然、いろいろなことがあるでしょうね。
「どんとこ~い!! 」って言える程強くはありませんが、
「いろいろあるだろうな」 くらいには覚悟して、
新年を迎えたいと思っています。
“明るい色”も“暗い色”もあって、“いろいろ”ですものね。

それではまた年明けに・・・

どうか良いお年をお迎えください。

感謝

This is it

久しぶりに映画館に足を運びました。
マイケル・ジャクソンの「This is it」を観るために。
別にM.Jのファンというわけではないのですが、
同じように、“ファンじゃない”という親しい友人から強く勧められて、
観てみる気になったのです。

M.J云々いう前に、まずは「たまには映画館で映画を見るべきだな~」と実感。
レンタル屋さんでソフトを借りられるようになってからというもの、
映画館に行く機会がめっきり少なくなっていました。
やっぱり、“映画館で見るべき作品”というものがありますね~。

さてさて、ファンでもない私が観た「This is it」。
素直に感動しました。
テレビで見るM.Jは、世界的なスターであるがゆえにあれやこれやと
誹謗中傷の対象になっているシーンが多くて、
ここ数年は、悲壮感ばかりを感じていたのですが、
「This is it」に映る彼は、舞台の上で天分の力を発揮する本来の姿でした。
天才の作品に触れると、それがどんなジャンルのどういう表現であろうと、
自分の偏狭な感覚が吹っ飛んでしまいます。
いいとか悪いとか、好きとか嫌いとか、ファンだとかそうじゃないとか、
そんな二極論的な捉え方が、いかに無意味なことかを思い知ります。
世界は、希有な才能を失ったのだな・・・と、しみじみ感じました。

映画では、そんなマイケル・ジャクソンの人間性や
超人的な才能を浮き彫りにしていましたが、
彼自身が「This is it」でテーマにしていたのは、
「Heal The World-【世界を癒そう】」だったとのこと。

彼は彼なりのやり方で、自分以外のものたちのために何ができるかを
考え続けていました。
そして、行動し続けていました。

出る杭に対するシニカルな視線は常に存在します。
「Heal The World」を掲げるスーパー・スターを誹謗中傷する声は今も消えません。

けれど、「あなたは他のために何をしていますか?」と問われたら、
多くの人が口をつぐんでしまうでしょう。
人を批判する時間があったら、自分に何ができるかを考えるべき。
自分はちっぽけ過ぎて何もできないと嘆く時間があったら、
道ばたのゴミの一つでも拾うべきなのですね。

  Earth
Song >> Click!

  Heal
The World >> Click!

もうすぐ2009年が終わります。
そして今日はクリスマス。

自分のことや、そのまわりのことでいっぱいいっぱいになりがちだった、
この一年を省みながら、
せめて今日ぐらいは世界に思いを馳せて、静かに祈りたいと思います。

メリー・クリスマス。

不思議なクリスマス

ちょっと不思議なクリスマス・・・

この辺りは、『日本で一番遅いモミジの紅葉、一番早い梅の開花』で有名なところ。
年末だというのにまだ紅葉が楽しめて、しかも梅がもう咲き始めています。
寒桜なのか、町中の桜の木の何本かは花盛り。
春に植えた日々草やインパチェンスも、まだまだ元気です。
クリスマスのイルミネーションが瞬いている中、週末には花火も上がりました。
店先にはお正月関連の商品も並んでいます。

とにもかくにも「めでたし、めでたし」ということで。(笑)
今年もそろそろ『年末年始のお知らせ』です。

*年末年始のお知らせ

12月25日から新年1月7日まで、ホームページの更新をお休みします。
12月30日~1月5日までは、全業務をお休みさせていただきます。
誠に勝手ながら、期間中にお送り頂きましたご質問やご注文につきましては、
対応が1月6日以降になりますので、何卒ご了承ください。

やさしい男たち

12-14.jpg

今日の新聞から思わず切り抜いてしまった写真。
ヤンキーなお兄さんたちが、小さな犬を囲んでいます。

一瞬、“脅されて怯える犬” に見えるかもしれませんが、
この写真のタイトルは「やさしい男たち」。
3人とも、小さな犬を見て優しく微笑みかけているのです。

私は、犬猫が大好きなのでいくら見ていても飽きないのですが、
それと同じぐらい好きなのは、“犬猫を見る人間の表情”を見ること。
動物好きな人は、それはもう言葉にできないくらいに優しい表情をするのです。

時には、『この人がこんな表情をするのか』と驚くこともあります。
その表情は丸裸のその人で、 そしてその人の一番あたたかな部分です。

こんな写真を見ていると、表向きがどんな姿であろうと、
それは二の次だとつくづく思います。
ヤンキーだろうと、モンキーだろうと、
小さな犬を見てこんなふうに微笑む人に、根っから悪い人はいないはずですから。

「ご予約・お取り寄せについて」のインフォメーションを一部改定しました。

「ご予約・お取り寄せについて」のインフォメーションを一部改定しました。

それぞれの国の郵便事情や季節による輸送状況によって、
入荷までにかかる時間がどうしても安定しないので、
これまで表示していた“お取り寄せにかかる時間の目安”を 削除しました。
また、お急ぎの場合の個別お取り寄せができるようになりましたので、
ご要望がございましたらお申し付けください。

『宇宙内存在』と『社会内存在』

大人は時々子供の感性を讃えたりするけれど、
だからといって子供に、「そのまま大人になればいいんだよ」とは言えません。

なぜなら大人は、“大人側”の世界を知っているからです。
誰もが時と共に嫌でも大人になって、自分の足で生きていかなくてはなりません。
だからこそ、大人たちはよかれと思って、子供にいろいろなことを忠告するのです。

先日、新聞に谷川俊太郎さんへのインタビュー記事が掲載されていました。
見出しは「詩はどこに行ったのか」。
前置きに、“現代における数少ない「詩人」谷川俊太郎さんに詩のありかを尋ねた” 
とあります。

数少ない「詩人」という言い方にはつまり、“詩だけで生計を立てている人”
という意味が少なからず含まれている気がします。

そんな谷川さんに、インタビュアーが
「詩人体質の若者は、現代をどう生きたらいんでしょう」と尋ねていて
興味深く読みました。

「まず、『社会内存在』として、経済的に自立する道を考えることを勧めます。今の詩人は、秩序の外に出て生きることが難しい。そうだなあ、時々、若者が世界旅行に行って、帰ってきてから急にそれまでとまったく違う仕事をしたりするじゃないですか、あれは、どこかで詩情に出会ったのかもしれないな。」

詩情=子供の感性・・・とは言えないけれど、
現代=大人側の世界・・・とも言い切れないけれど、
詩情も子供の感性も、この社会では失いやすく、けれども失いたくないもの、
であることには違いないのではないでしょうか。

谷川さんは「人はみな自然の一部、『宇宙内存在』として生まれてくる」といっています。
そして「成長するにつれ『社会内存在』として生きていかざるを得ない」と。

さらに「詩は宇宙内存在としての在り方に触れようとする」とも。
つまり、 社会内存在に偏った人間は、詩が希薄になるということなんですよね。

ならば子供たちには、『宇宙内存在』と『社会内存在』のバランスがとれた
大人になってもらいたいと思いますよね。
しっかりと大地を踏みしめながら、時に路傍の石に宇宙を感じられるような、
そんな人間に・・・( 私もなりたい)

けれども、どうすれば子供たちをそんなふうに導いてあげられるのか、
悩むばかりです。
それ以前に自分自身のバランスが、かなりあやしいし・・・ (笑)

だから大人は時々(頻繁に?)子供に、トンチンカンなことを言ってしまうのですね。

子供たちを導いているようで、実は、その子供たちから『宇宙内存在』を再認識させられて、
なんとかバランスを保っているのは大人の方かもしれないですね・・・

子供は子供だった頃

高校1年生のY君を見ていると、ある詩を思い出します。

子供は子供だった頃
いつも不思議だった
なぜ 僕は僕で君ではない?
なぜ 僕はここにいて そこにいない?
時の始まりは いつ?
宇宙の果ては どこ?
この世で生きるのは ただの夢?
見るもの 聞くもの 嗅ぐものは
この世の前の世の幻?
悪があるって ほんと?
悪い人がいるって ほんと?
いったい どんなだった
僕が僕になる前は?
僕が僕でなくなった後
僕はいったい何になる?

      ・・・・・全文はこちら

1987年に封切られたヴィム・ヴェンダース監督作
「ベルリン天使の詩」という映画の中に出てきたペーター・ハントケの詩です。
この映画は、私にとって最も印象に残る作品のうちの一本です。

高校生は、大人と子供の狭間にいて、
この詩のように、子供の頃を懐かしむ大人のような心持ちにはなれないし、
かといって、“時の始まり”や“宇宙の果て”のことばかり考えていたら、
先行き不安だよと大人たちに脅されて、理系か文系かなんて不可解な問いに
悩まなければならない・・・

社会の不条理さを感じ始めた思春期の子供たちが、不安定になるのは当然です。

時が経ったというだけで、私もいつの間にか大人側の人間になっていました。
高校生に「理系か文系か・・・」みたいな問いを強要するのは、
同じ大人として本当に心苦しいです。
だからといって、この社会の不条理を即解決する方法など
どこにもないというのが現実です。

「子供は子供だった頃 」と、この詩は繰り返します。
どうして、「大人は子供だった頃・・」ではないのでしょう?

詩人は、大人になっても子供の頃のあの純粋な感性が
完全に失われてしまうことはないのだという希望を
表したのではないかと私は思うのです。
たとえ忘れ去られていたとしても・・・

きっと、傷つきながらも子供の頃の感性を忘れずに持ち続けた大人が、
こんな詩や映画を作り出し、この世界に光を灯しているのでしょう。

この映画は、こんな社会でもまったく捨てたもんじゃないよと
教えてくれます。

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