*たわごとコラム

今日の新聞・・・

『自宅に残してきた愛犬はなを抱きしめる○○○○さん。』
朝刊に載っていたこの記事を見て思わずポロリ。
よかった・・・

災害があると、犬や猫たちが家に置いてけぼりにされるケースが多いですね。
人間優先なのは仕方のないことですが、
家族同然の動物たちを置いていくのは、どんなにつらいことでしょう。

取り残されている全ての命に救助の手が届きますように。

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一刻も早く、被災された方々が心身ともに安定を取り戻せますようお祈りいたします。

考えずに描くこと

前回のコラムで触れたジャクソン・ポロックのホームページです。
“考えずに描くこと”が体験できます。

http://www.jacksonpollock.org/

楽しんで来てくださいね~。

身体が自然に動いて絵を描く

「・・・描く時はまず紙を汚すことから始めます。
そうすると頭ではなく身体が自然に動いて、誘導してくれるんです。
描いているうちに色も誘導してくれる。その時に思います。脳みそに勝った!と」

新井良二さんがインタビューに答えてそういっていました。

頭ではなく身体が自然に動いて絵を描く・・・
ある時期までの子どもはみんなそうだけれど、
いつの間にやら“頭”が口を挟んでくるようになって、
ともすると「私は絵なんか描けない」なんていい始めたりします。
丸を一つ描いたって、絵は絵なのにね。

大人になると、“頭”を黙らせるのは相当難しいことなのですね。
だからこそ、それができる人の絵は人を魅了するのかもしれません。
確かにそういう作品は、理屈抜きに迫りくるものがあります。

例えば、80歳から絵を描き始めたアボリジニのエミリー・ウングワレーや、
アクション・ペインティングの産みの親、ジャクソン・ポロックの絵。
この方たちの場合は、そうしようとしてそうなるのではなく、
そのようにしかできない描き手でした。

ところで、 新井良二さんの脳みそに勝ったのは、いったいなんなのでしょう?
エミリー・ウングワレーや ジャクソン・ポロックの手を動かし、
描かせるものはいったい?

見ようとすると見えなくなり、考えると消えてしまうものにアクセスして
生まれてくるものは、何?

エミリー・ウングワレーはそれを、「すべてのもの」といいました。

愚かな問いを繰り返すだけの凡人には、到底たどり着けない領域です。

FlowerbyKenzo

本日はKENZOの定番フレグランス“FlowerbyKenzo”のLimited Artists’ Editionで
起用された三人のアーティストの作品を新着UPしました。

これまでにも何度かご案内してきましたが、
Lorenzo Mattotti、 Rebecca Dautremer、 Pierre Mornetによる絵本です。

私は、香水というものとはまったく無縁な人間ですが、
“FlowerbyKenzo”の美しさにはついつい目が奪われてしまいます。

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シンプルな白い箱に描かれた一輪のポピー。
アスファルトにも根づく生命力の強い花で、フランスでは、
日本でいうタンポポのような存在なのだそうです。

アシンメトリーなガラス瓶は、高層ビルにインスピレーションを得た
“街”の象徴なのだとか。
“FlowerbyKenzo”のコンセプトは、
“都会に生きる凛とした女性”ということのようです。

このようなコラボレーションは、日本ではあまり例を見ませんが、
それはやはり、「絵本は子ども向けの本」「絵本作家は、絵本だけの作家」・・・
という枠組みが、まだまだ強いからなのだと思います。

フランスでは、絵本は決して子どものものだけでなく、表現手法のひとつ。
才能あるアーティストは、業界の枠を超えてのびのびと活動しています。
Lorenzo Mattotti、 Rebecca Dautremer、 Pierre Mornetの3人も、
絵本だけでなく、多様な分野で活躍しているアーティストたちです。

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それにしても、素敵ですね~、Limited Artists’ Edition のパッケージ。

いずれも、底知れぬ才能を感じさせる独創的なアーティストですが、
私は強く感じた共通点は、“色”のエネルギーです。
その鮮烈さ、奥深さが、このフレグランスの香りを連想させます。
また、 3人ともよく女性像を描く方たちで、
その雰囲気が “FlowerbyKenzo”のコンセプトに呼応しているのでしょう。

こんなふうに、感覚を広げてこの3人の絵本を開いてみると、
たしかに、香しい空気や、音楽や、
描かれた女性の体温・・・を感じることができます。

KENZOはきっと、3人の作品の中に、
“FlowerbyKenzo”と共鳴するエネルギーを感じ取ったのでしょうね。

おせっかいなおっさん

昨日の夕方のこと、川岸にポツンと寂しそうに座っていた裏の家の子のことを、
店主Bは心配しています。

「オ~ス!○ ○、そんなところで何やってんだ?」

「う~ん、暇だからさ~」

「もう暗くなるから帰れよ」

「う~ん」

○ ○は3人兄弟の真ん中。
お兄ちゃんの方は自転車を買ってもらえたけど、○ ○は買ってもらえない。
弟はまだ赤ちゃん・・・

「俺も子どもの頃、家に帰りたくない時があったな~ 」と店主B。

○ ○は、うるさいな~と思ったかもしれないけれど、
近所に、こんなおせっかいなおっさんが一人くらいいてもいいんじゃないかと思います。

この辺りでは、誰がどこの子でなんていう名前なのか、
大人たちはだいたい把握しています。
小さな街だからでもあるのですが、それだけではありません。
子供たちがみんなよく外で遊んでいて、顔をあわせる機会が多いからなのです。

物騒な事件が増えたからか、
最近は外で遊ぶ子供たちが少なくなったそうですね。

家から出なければ、それで安全?でしょうか?
それともやはり、現実はそんなに甘くないのでしょうか?

おせっかいなおっさんやおばさんが増えれば、
子供たちはまた外で遊べるようになるでしょうか?

さくらんぼ

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桜がもう実を付けました。
ついこの間、散ったばかりなのに。

みかんの花の香り

今この辺りでは、みかんや橙の花が満開です。
山の斜面には果樹畑がたくさんありますので、
今日のように晴れた日には、街中がよい香りに包まれます。
青い空、キラキラ光る新緑の山、薫る風・・・
ちょっと大袈裟な言い方になりますが、まるで天国のよう。

住人たちは皆、それぞれに大なり小なり悩みを抱えていますが、
それでも今、この街は平和です。
何もない平凡な一日の、なんとかけがえのないことでしょう。

こんな気持ちになるのは、みかんの花の香りのせいなのかもしれません。

アロマテラピーで使われるオレンジの精油には、
心を前向きに明るくする効果があるそうです。

水とぶどう酒-----その3

こんなコラムを書いている間にも、
世界中で悲惨な出来事が次々に起こっています。
どんな言葉も虚しく感じられ、筆が進まなくなってしまいました。

「・・・」

たとえ祈ることしかできなくても、
それが無意味なことだとは思いたくありません。

どんなにささやかでも、ぶどう酒を注ぎたい。
そう思い続ける個でいたい。

いつも、いろいろ考えて、迷っても、
結局はそこに回帰するのです。

水とぶどう酒-----その2

このおとぎ話は、逆説的なヒントだと思いますが、
小さな個の、役割の大きさを教えてくれます。

ぶどう酒であろうと水であろうと、
たった一人で樽を満たすことはできません。
だとすれば、自分の小ささや非力さを嘆く事自体、意味のないこと。

自分ができることの小ささを嘆く事は、
自分ぐらいなら分からないだろうと
樽に水を注いでしまうことと表裏一体なのですね。

今、私たちを取り巻く現実は、
かなり水で薄まってしまったぶどう酒なのではないかと思います。
一人一人が、大して罪の意識もなく、
ちょっとずつ水を注ぎ続けてきた結果です。

この現実をかえるために個人ができることは、たとえ僅かでも
ぶどう酒を注ぎ入れる努力をし続けること以外にありません。

もちろん、実際には、ただ生きているというだけで、
何かを奪い、汚してしまうわけですから、
おとぎ話のように単純ではありませんね。

でもだからこそ、“少しでも”という気持ちが大切なのだと思います。
その行いは誰にも評価されず、
”焼け石に水(ぶどう酒)”のように感じられるかもしれません。
けれども、それが失われたら、
樽はいつまでたってもぶどう酒で満たされることはないのです。

・・・またまた、つづく

水とぶどう酒-----その1

自分という存在の小ささや非力さを嘆きたくなる時、
いつもの脳裏に浮かぶ おとぎ話があります。

子どもの頃に出会ったお話で、詳しいことは忘れてしまったのですが、
大筋だけはずーっと覚えていました。

後で調べて分かったのことなのですが、
それは『ぶどう酒が水になった話』というフランスの民話です。

『ぶどう酒が水になった話』

フランスのある村に、100歳を迎えたおじいさんがいました。
村人たちはみんなで相談して、長寿のお祝いに
おじいさんの大好きなぶどう酒を一樽贈ろうということになりました。
どこの家も貧しかったので、
みんなで少しずつぶどう酒を持ち寄ることにしました。
村の広場に大きな樽を置き、
村人たちは順番に持ち寄ったぶどう酒を注ぎ入れました。

一杯になった樽を、みんなで担いでおじいさんの家に持っていきました。
その樽を見て、おじいさんは涙を流して喜びました。
貧しい村人たちの気持ちに感謝で一杯でした。

おじいさんその晩、樽を開けてぶどう酒を飲んでみると・・・・
なんとぶどう酒は、すっかり水に変わってしまっていました。

何故ぶどう酒が水になってしまったのでしょう?
『自分ひとりだけなら、ぶどう酒のかわりに水を入れてもわからないだろう…』
と、すべての村人が考えた結果、
樽はぶどう酒ではなく、水で満たされたのです。

なんて恐いお話でしょう。
このお話のキーワードは『自分ひとりだけなら』です。
全ての人が 『自分ひとりだけなら』と思うと、ぶどう酒も水に化けてしまうのです。

・・・・つづく

暗澹たる気持ち

先月、私は暗澹たる気持ちで過ごしていました。

“食品の裏側”という本を読んで、“不都合な真実”というDVDを見たら、
なんだかもうダメなんじゃないかと思ってしまったのです。

その頃、たまたま環境問題をテーマにしたテレビの特番が重なって、
余計に気持ちが沈みました。

もちろん、いずれも初めて触れる情報ではありませんが、
より具体的なデータを提示されて、いかに深刻な状況であるかを再認識したのです。

“食品の裏側”の著者である安部 司さんも、
“不都合な真実”を制作したアル・ゴアさんも、
人々を絶望させるために情報発信しているわけではないのですから、
『ダメなんじゃないか』なんて思ってしまう事自体がダメなんですが、
誰もが一瞬はそう思ってしまうのではないかと思える程に、シビアな内容でした。

しかも、これらに示されている“食の危機”、“温暖化の危機”以外にも、
問題は山積みです・・・

アラームは鳴り続けています。
しかも、手遅れなのではないかと思えるようなレベルです。

「いったいどうすれば? 」

“不都合な真実”というDVDの中にも、
講演を聴いたある女性が、アル・ゴアさんに、
「私たちはどうすればいいのでしょうか」と問いかけるシーンがありました。

自分にいったい何ができるのか、誰もが皆そう考えるでしょう。
私も考えました。
そしてどんなに考えても、できることは身近な、とてもささやかなことばかりで、
それが、いったいどれほどの足しになるのだろうかと気が遠くなってしまうのです。

けれども私はかつて、自分なりの一つの答えにたどりついていて、
結局、またそこに回帰しました。

そうしてやっと、『ダメなんじゃないか』という気持ちを捨て去ることができたのです。

それは・・・つづく。

久しぶりに“レイチェル・カーソン“を読みました。

一部紹介・・・

?子どもの世界は新鮮で美しく、驚異と感激にみち溢れている。不幸にもわれわれの多くは、成人する前に澄み切った洞察力や、畏敬すべき美しいものへの直観力を喪失してしまう。もしも私が、すべての赤ん坊の命名式を司るとされている善良な妖精に影響をおよぼすことが出来る立場にあるとしたら、私は彼女が、世界のすべての子供に対して、生涯を通じてこわれることのない驚異の感覚を贈りものとするように求めるだろう。それは、やがてやって来る倦怠と幻滅、人為的なものへの不毛なあこがれ、われわれの力の源泉からの疎遠などに対して確かな解毒剤となるであろう。
 子供たちが、このような妖精からの贈りものに頼らずに生来の驚異の感覚を生き生きと保ち続けるためには、その感動を分かち合えるような大人が少なくとも一人、その子供のかたわらにいて、われわれの住んでいる世界の歓喜、感激、神秘などをその子供といっしょに再発見する必要がある。親というものは、子供の熱心で敏感な心に触れる一方、他方で複雑な物質的世界に接する自己の不十分さを思い知らされる。その世界には、見知らぬ多様な生命がすんでいて、親たちはそれらを体系だった知識にまとめあげる自信を失ってしまう。そしてみずから打ちのめされた気分に陥って叫ぶのだ。「どうしたら私は自分の子供に、自然について教えることが出来るだろうか。私は鳥を識別することさえ出来ないのだ!」と。
 私は、子供にとっても、そして子供を教育しようと努力する親にとっても、「知る」ことは、「感じる」ことの半分の重要性さえももっていないと固く信じている。もしも、もろもろの事実が、将来、知識や知恵を生み出す種子であるとするならば、情緒や感覚は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌である。幼年期は、この土壌をたくわえるときである–美的な感覚、新しい未知なものへの感激、思いやり、憐れみ、感嘆ないしは愛情といった感情–このような情念がひとたび喚起されれば、その対象となるものについて知識を求めるようになる筈である。それは永続的な意義をもっている。消化する能力がまだ備わっていない子供に、もろもろの事実をうのみにさせるよりも、むしろ子供が知りたがるようになるための道を切り開いてやることのほうがはるかに大切である。

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