*たわごとコラム

血よ、めぐれ!

さ〜む〜い〜
記録的な大寒波に、大雪・・日本列島が凍り付いているみたいですね。
この週末、私は危うく風邪を引きかけて、日がな一日ぼんやりと過ごしてしまいました。
体調を崩すと思考能力が著しく低下するので、
何もせずにひっくり返ってしまうことが多いのですが
「いけない、いけない」と気力を振り絞ってボディケアに専念しました。
あたたかい飲み物を飲んで水分を補給し、身体を暖めて、
それからなるべくゆっくりと深く呼吸をする・・・
そうすると、あら不思議・・・身体がだんだん楽になっていくのが分かります。

頭が痛かったのは、呼吸が浅くなって、脳が酸欠状態だったから・・・
手足が冷たいのは、血液の循環が悪いから・・・
血液がうまく循環しないのは、血液そのものがドロドロだからか、それとも、
身体が冷えきっているからか・・・

結局、どんな病気でも“血液の質と循環を良くして、自然治癒力を上げる”ことが
治療の基本なんですよね。
そう考えると、とってもシンプル。

最近、スローライフとか、スローフードとかが流行っているけれど、
スローケアとか、スローレメディー、なんていうキーワードが
あってもいいような気がする。
それって結構大事だよね。
もう、ある??

ちなみに、毎日5キロの早朝マラソンをしている店主Bは、元気もりもり。
すごい・・・同じ人間とは思えない・・・
私なんて、5キロ走ると思っただけで卒倒しそう。

折り紙の天才

私のボーイフレンドの一人、小学生のYくんは折り紙の天才です。
「本当に一枚の紙から出来ているの!?」というような、
ものすごく複雑な作品もお茶の子さいさいに作り上げてしまいます。
御両親によると、数年前に熱中し始めてからというもの、
とにかく暇さえあれば何かを折っていて、一時はちょっと心配になる程だったそうですが、
結果的には学校の成績も上がり、Yくんに予想以上の大きな成長をもたらしたとのこと。
いつだったか、Yくんから直接折り紙の手ほどきを受けたことがあります。
“バラの花”の折リ方を、手取り足取り教わったのですが、
これが予想以上に難しかった・・・
図解入りテキストを見ながらだったのですが、それでもすんなりとは理解できず、
Yくんの指導がなければ、仕上がるまでに相当時間がかかってしまったと思います。
(仕上げられたかどうかも、ちょっとあやしい・・・)
なんというか、今までに使っていなかった脳の一部が、ジンジンする感じ。
折り紙の構造は非常に数学的で、制作を進めるには先読みの能力も必要です。
将棋やチェスのように、何手も先を読んで今の一手を打つ、といった、
布石を打つような行程があり、しかも折り進めていく途中で、
わざわざ元の正方形の紙に戻してしまう、という行程があったりします。
つまり折り紙は、時空間を行き来する四次元的な創作行為なのです。
成長期に折り紙に熱中したYくんの脳は、
それこそ爆発的に発達したのではないかと思います。
そのせいでしょうか、小学生であるにも関わらずYくんは
世界を俯瞰してみる視点を持っています。
感性が非常に豊かで、例えば世界の現況について、善と悪について、
人間にとって大切なものについて・・・自分なりのしっかりとした意見を持っています。
ちなみにYくんは3人兄弟で、各々が何かの天才・・・ 
子供は、熱中できることに出会い、それを伸ばせる環境に置かれると、
とんでもない能力を発揮するものなんですね。Yくんのホームページ「オリガミ星人」 http://www.wvase.co.jp/y/

宵っ張りの小学生

絵本「天国のサーカスぼうや」 を読んでいたら、子供の頃に見た映画
「汚れなき悪戯」を思い出しました。ビデオもパソコンもない時代ですし 、
親がたまに映画館にまで連れていってくれる作品といえば、
ディズニーアニメぐらいなものでしたから、当時テレビで放映されたのだと思います。

今振返ってみると、私は小学生の頃に結構たくさんの映画を観ました。
もちろん、そのほとんどがテレビ放映されたものなので、
作品を選ぶことはできませんでしたし、
私の親は、とくにどんな内容の映画でも「観てはいけない」とは言わなかったので、
あらゆるジャンルの作品を目にしていました。
(淀川長治さんの「さよなら、さよなら、さよなら」が懐かしい・・・ )
特に古い名作映画は、深夜に放映されることがほとんだでしたから、
宵っ張りの小学生だったのか・・・親が寛容だったのか・・・
そのところはあまり記憶にありません。

が、作品そのものの記憶が今も色褪せていないことに、私自身ちょっと驚いています。
「汚れなき悪戯」を観たのは小学2.3年の頃だったと思うのですが 、
主題歌の“マルセリーノの歌”を今でも口ずさむことが出来ますし、
映像の印象や音声・・「汚れなき悪戯」という、小学生にはちょっと難しい漢字を、
すぐに覚えてしまったことまでがはっきりと記憶に焼き付いているのです。
もちろんその時に感じた、胸を締め付けられるような感覚までも・・・

中には残虐シーンや恐怖シーンが盛り込まれた作品もあって、悲しいかな
どちらかというとそういう作品の方が映像のディテールなどを
はっきりとを思い起こすことが出来ます。

今どきの残虐シーンは、ありふれている上に映像的に凝っているので、
かえって現実味がないような印象がありますが、
私の胸に焼き付いてしまったのは、例えば荒野のガンマンが人の耳を
ナイフでさっと切り落としてしまう・・というようなシーンでした。
特撮も、効果音もないそのシーンが、生々しくに目に焼き付いてしまって、
フラッシュバックする度に怯えていた記憶があります。

しかし一方で、映画が与えてくれた感動や知識は計り知れません。
「ブラーザー サン シスター ムーン 」「サウンド オブ ミュージック」・・
オードリー・へプバーンやキャサリン・へプバーンのロマンティックなラブストーリー。
「ジョニーは戦場へ行った」「奇跡の人」・・・
思い起こせばそれこそ走馬灯のように記憶が甦ります。。

今ですね〜、ふと思い出した映画があって・・・「少年が、病気にかかったロバを何とか
助けようと、ローマへと旅する物語」なんですが・・・タイトルを忘れてしまいました。
「奇跡のなんとか・・・ 」???
で、ちょっとインターネットで調べてみたら、出てきましたよ〜!
——「小さな奇蹟」
ポール・ギャリコの原作だったんだ〜。 なんだか感激。。

小学生の頃に、選り好みせずたくさんの映画を観たこと・・・
それが良いことだったのか悪いことだったのか、何ともいえませんが
“私”という人間の材料になっていることは確かです。
その材料は、随分と私の人生を豊かにしてくれました。
ただ、残虐なシーンが予想以上に強く子供の記憶に刻まれてしまうことについては、
いろいろな意味で一考の余地がありそうです。

机の上に愛が漂う

12-9
私の机の上には、年がら年中犬がいます。
毎年クリスマスになると、犬好きの友人が日めくりのドッグカレンダーをプレゼントしてくれるのですが、日々切り離す一枚をそのまま捨てる気にはどうしてもなれず、裏をメモにしたり、栞に使ったりして、暫くの間はなんとなく机の上を漂っています。日めくりする時はもちろんのこと、こうして漂っている犬にふと目が止る度に頬が緩むのです。

これらの写真は、プロのカメラマンが撮ったものではなく、一般のドッグラバーズから寄せられたもの。
中にはライオンの着ぐるみを着せられていたり、角を付けられたりして目が座ってしまっている犬もいるけれど、犬たちだっていやいやながら?もじっとしているのは、自分が家族の一員であるという揺るぎない自覚があるからなんですよね。

モデルになっている犬たちももちろんかわいいけれど、この子たちにカメラを向けている人間たちのあたたかなまなざしも伝わってきます。

友人は、元捨て犬捨て猫を2匹ずつ飼っているのですが、そんな彼女の優しさも伝わってきます。

私の机の上には、愛が漂っているんです。(笑)

あっ! 足元に現物の犬が一匹! 机の下の愛は寝そべっている。。。

峠の茶屋の帰り道

12-6西の街に抜ける山道の途中に、
素晴らしく眺めのいいパン屋が出来ました。
遠くに家がポツポツと見えるものの、周辺には何もありません。
それなのに、店内はとても賑わっていました。

富士山を見ながらコーヒーが飲めて、小さなガーデンもあって、
スィートな雑貨なんかも売ってます。
なかなか素敵な“峠の茶屋 ”・・・“峠のカフェ”というべきね。

帰り道、空は透き通っていました。
この写真には、本当はペーパームーンが写っています。
遠くに輝く街の灯も写っています。
見えないけれど、写っています。

ソビエト絵本

新読書社さんから、ソビエト絵本の在庫が
僅かになっているとのご案内をいただきました。
既に、再入荷ができないタイトルもあるようです。
一応、重版の可能性についてお聞きしてみましたが、予定はないとのこと。
予想通りですが、 もしも重版がかなったとしても、
同じような風合いの本にはならないでしょうね。
ご当地ロシアでだって、今ではこんな体裁の本は売ってないでしょうから・・・
印刷技術の進歩を嘆いているようで、なんだか変な言い方ですけどね。(苦笑)

印刷技術の進歩に伴う変化は当然のこととしても、惜しむべきは
現代ロシアにおける児童書出版の現状です。
チュコフスキーやマルシャーク、ウスペンスキーなど、
昔ながらの物語は健在でも、イラストの方は残念ながら“風前の灯”だとか。。。

昨年のロシア絵本展で1920年代作品の復刻版も発行されましたし、もしかすると日本での方が、
かつてのロシア作品を入手しやすい状況なのかもしれません。

がんばろうね、おばあちゃん。

今日はちょっといいことがありました。
しばらく姿を見かけなかったおばあちゃんと、散歩の途中でばったり。
おばあちゃんは杖をついていました。
転んだ拍子に腰の骨を折って、2ヶ月間も入院していたのだとか。
「そりゃもう、痛いの痛くないのって・・・」
退院したとはいえ、まだまだ大変そう。
それなのにおばあちゃんは、ニコニコしながらクロッキーに
「足良くなったね〜」って言ってくれました。
2ヶ月前、クロッキーはまだ足を引きずっていたのです。

「おばあちゃんと一緒にがんばろうね」
相変わらずの笑顔に、私たちも一安心。

クロッキーは、獣医さんから「もう年だから仕方ないですね」って言われていたんです。
でもちゃんと治りました。
本当に本当にがんばろうね、おばあちゃん。

日本のクリスマス

えっ! もう12月!?
どうして毎年“気がつけば年末”なんでしょう・・・

温暖なこの地でも、山がすっかり色付きました。
あちらこちらの家で、早々とクリスマスのイルミネーションがまたたいています。
先日ちょっと車で周辺の街を走ってみたら
老舗の旅館にも、昔ながらの漁師町にもクリスマスがきてました。
楽しいな〜、日本て国は。

世界は不思議なことでいっぱい

まどみちおさんの詩集を開いたら、いろいろなことを思い出しました。
例えば、子供の頃に不思議だと思っていたことの諸々。
最初は、見るもの聞くものなんでも不思議で、
それから成長とともに頭が少し大きくなると
『見えなくても聞こえなくても、世界は不思議なことでいっぱいだ』
と思うようになって・・・

学校に行って勉強して、少しは本も読んで、頭が大きくなっても、
“不思議”は増える一方です。

いろんな不思議があるけれど、“存在の理由”ほど不思議なものはありません。

 どうして私は存在するのだろう?
 どうして今ここに居るのだろう。
 どうして私は私なのだろう。
 何かの意志によって?
 何かって何?
 その意志は、自分がどうして存在するのかを知っているのかな?
  *“私”は“あなた”でも“プランクトン”でも“宇宙”でも

そんなことを不思議がっているのは、自分だけではないんだなと、
昔「ベルリン・天使の詩」という映画を観て思いました。
はじめて観た時から、もう15年以上も経っているのに
作中に流れる詩が脳裏に焼き付いています。

子供は子供だった頃
いつも不思議だった
なぜ 僕は僕で君でない?
なぜ 僕はここにいてそこにいない?
時の始まりは いつ?
宇宙の果ては どこ?
この世で生きるのは ただの夢?
見るもの 聞くもの 嗅ぐものは
この世の前の世の幻?
悪があるって ほんと?
悪い人がいるって ほんと?
いったいどんなだった 僕が僕になる前は?
僕が僕でなくなった後 僕はいったい何になる・・・・

先日ご紹介したまどさんのうた「どうしてなのだろう」も、
存在の不思議をうたったものですが、
その不思議を“よろこび”として受け止めている、
まどさんという存在自体に、私はとても感動したのです。

「どうしてなのだろう」

どうしてタンポポなのだろう
とどうしてだかのわたしが
どうしてだかのタンポポみれば
ヒバリがないて ないてないてないて
どうしてヒバリなのだろう
 :
 :
ああどうしてなのだろう
いのちあるものないもの ものものものよ すべてのものよ
このちきゅうそのものよ…

まどさんの詩とオデッセイ

今、私の机の上に、まど・みちおさんの詩集と、
工作舎のオデッセイという本が並べて置いてあります。
本好きですし、一応本屋なので、日々様々な本が机上を通り過ぎてゆきますが
この2冊はかれこれ一週間以上も目の前に留まっています。

まど・みちおさんの詩集は、先日新着UPしたのを切っ掛けに再び頁をめくり、
感動を新たにしました。

工作舎のオデッセイは今月上旬に購入して、毎日少しずつ読み進めています。
学生の頃から工作舎の本のファンだったのですが、近年手にしておらず、
この本を見て再熱してしまいました。
オデッセイは、工作舎が1971年~2001年に出版した本の断片集で、
私にとってみると、好きなアーティストのベストアルバムのようなものです。

工作舎が刊行する本のジャンルは“科学”がメインですが、
本屋さんは常に、どの書棚に並べるべきか悩んでいるに違いありません。
(工作舎の本はとにかく美しいので、アートのコーナーに置いてもいいと思う)
とはいえ、児童書売り場に置かれることはまずないと思いますが。
逆に、まどさんの詩集は、ほとんどが児童書売り場に置かれていますね。
私は今、『この2冊の本には同じようなことが書かれているな~』
などと感じながら読み比べています。

例えば小さな生命体の意識について、あるいは存在の不思議について・・・
オデッセイには、科学的に、哲学的に。
まどさんの詩集には、詩的に、てつがく的に。
いつだったか何かの本で読んだ「時代の最先端を見つめているのは詩人だ」
というような言葉を思い出しながら。
(それって工作舎の本だったような気がする・・・)

オデッセイより—-
「ミミズが痛がっている」という表現は科学的に信頼し難くても、そのミミズではないかぎり、
それをまったく否定することは出来ないのである。- 奥井一満

答えのない質問をいくつ考えられますか
質問のない答えをいくつ考えられますか
世界から答えを引いたら何が残りますかー田中未知

詩人も科学者も、芸術家も哲学者も・・・見つめる先は同じなのかもしれませんね。

落ち葉ひろい

近所の子供たちが落ち葉を集めていました。
学校の課題なのだそうです。
なかなか風情のある課題だな〜と思いきや、
校庭で焼き芋をやるためだそうな。
子供たちはウキウキ。
きっと、ものすごく大きなたき火になるね〜。

“子供のために”と思わずに作られた絵本のこと

Gisele de Verreの出版元であるseuilは、フランス国内の才能豊かなアーティストによる絵本を数多く発行する一方で、クヴィエタ・パツォウスカーやブルーノ・ムナーリなど、世界の優れた作品のフランス語版を扱ってる出版社です。
そんなSeuilのカタログは、絵本という“作品”を紹介する作品集のようでとても見ごたえがあるのですが、その中に、一人だけ日本人の作品が掲載されていて印象に残りました。 

その作品とは、五味太郎さんの「らくがき絵本 Part1&2」です。((書影はこちらで))
頁ごとに、落書きのヒントになるような五味さんのイラストが控えめに印刷されていて、
そこに読者が自由に描き足していくという趣向の本で、絵本というカテゴリーには収まりきれません。
この本は、プレシャスブックスでも以前にご紹介したことがあるのですが、その時のコメントはこんな感じ・・・

—子どもって「自分には絵がかけない」なんて思うことなんかあるのでしょうか?ペンを持ち、紙にペン先を当て、丸を一個描いただけだって絵は絵です。その丸は、満月かもしれないし、車輪かもしれないし、コップを上から見たところかもしれないし、もしかすると“暖かな気持ち”かもしれないのです。それなのに、大人になるにつれ「自分には絵が描けない」と思ってしまうようになったりします。この本は、そんな“大人”にもおすすめの一冊。五味さんがちょっとだけ、自由に絵を描く手伝いをしてくれます。頭を空っぽにして落書きをしているうちに、いつの間にか子どものように絵を描いている・・・というわけ。2.5cmも厚さがある本で、思いきり遊べます。—
要するにこの本は、絵を描くことのきっかけを与えてくれるのです。

Seuilのカタログには、書籍紹介の頁以外にも、ところどころに「らくがき絵本」のイラストが引用されています。 “読者が自由に描き込める余白”が用意されているイラストは、その余白そのものが“想像力・創造力”をはっきりと表しています。その余白が物語るものは、言葉がなくても通じるし、また言葉では説明できないものなのです。それこそが、Seuilが掲げるポリシーの根幹なのだということが、はっきりと伝わってきます。大人であろうと子どもであろうと、その本を手にすることで想像力や創造力をかきたて、何かの切っ掛けになるような作品、Seuilのカタログには、そんな絵本が並んでいます。

いつだったか、五味太郎さんを紹介するテレビ番組をやっていて、その時に聞いた言葉が忘れられません。
それは、「ぼくは“子どものために”なんて思って作品を作ったことは一度もない」というような内容のコメントでした。
「最近の子どもたちの本離れを、五味さんの力でなんとかしたい・・」という、ある出版社の人に対する返答の一部です。

「本を読まない子がいてもいいじゃない。それがその子の個性なんだから・・・」

五味さんは、自分で作りたいと思うものを無心に作って、結果的に子どもたちがそれに反応する、ということ。押し付けなくても、それどころか「本を読まない子がいてもいいじゃない」なんて言ってても、出会いの切っ掛けさえあれば、子供を自然に夢中にさせてしまうような魅力が、五味さんの作品にはあるんですよね。
もちろん、五味マジックは大人にも有効です。

ちなみに私が今見ている Seuilのカタログは、2003年版。日本作品の翻訳が増えているといいな〜。

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