*たわごとコラム

「かむろば村へ」

友人に勧められて「かむろば村へ」という漫画を読みました。

お金恐怖症になってしまった元銀行員の青年が、お金無しで生きていくことを目指すというストーリーで、
今年の春映画化もされました。

友人からこのあらすじを聞いた時に思わず口をついて出てきてしまった質問。
「それで『お金無しで生きるって』どういうふうに描かれてるの?」

普通は、本を読む前にその内容を細かく聞いたりしません。
映画を見る前に、ネタをばらされたら怒ります。(笑)

なのに思わず聞いてしまったのは、私自身が日頃からお金最優先の社会に疑問を抱いているからで、
しかも『なら、どうすればよいのか』という答えが見つけられないもどかしさを常に感じているからに他なりません。

友人からの答えは
「作者も模索しながら描いていると思う」

3巻で完結の作品なのであっという間に読み終えましたが、
確かに、作者なりの明確な答えが示されているわけではありませんでした。

お金を「さわれない、使えない、欲しくない」というお金恐怖症の青年は、
自給自足の生活を目指して田舎に移り住みます。

「自給自足の生活」・・・現代社会に疑問を抱けば、誰もが一度は思い描くことではないでしょうか?
けれども現実はそんなに甘くない。「かむろば村へ」には、そのあたりがかなりリアルに描かれていると思います。

確かにこの作品から、明確な答えを得ることはできません。
けれども、ヒントは得られるのではないかと思います。

それは決して「自給自足の生活」への手引きなどではありません。

答えが分からなくても、自分に何が出来るのかが分からなくても、
考え続けること、そしてどんなに小さなことでもいいから行動を起こすことの重要性、なのだと思います。

例えその行動が一見無意味なことに思えたとしても、必ず目指すべき場所に繋がっているということを
この作品は教えてくれます。

「かむろば村へ」のような作品を読んでみることも、
小さなアクションのひとつになると思います。

Flowering Desert

世界で最も雨が少ない地域といわれるチリのアタカマ砂漠には今、花が咲き乱れているそうです。

Wikipediaによればアタカマ砂漠は、
「世界でも最も乾燥した砂漠であり、40年間まったく雨が降らなかった地域もある」とのこと。

ところが今年の3月、半日で7年間分の雨が降るという出来事があり、
その後植物が芽吹き始めて、現在では砂漠の丘一面が花で埋め尽くされているそうなのです。

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花が咲いている場所だけを撮影したら、とれもここが砂漠だとは思えませんね。

普段のアタカマ砂漠はこんな感じだそうです。

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3月に大雨が降った時には、周辺の街にも洪水の被害が及んでいて、
「雨が降って砂漠に花が咲きました〜」と楽しげに語れるような、
単純な出来事ではありません。

ちなみに、こんなふうに滅多に降らない雨が降って、
たくさんの花が咲いた砂漠を「フラワリング・デザート」というそうです。
今年のアタカマ砂漠のフラワリング・デザートも決して前代未聞の出来事ではなく、
十数年に一度は見られる光景なのだそうです。

『それにしても、この花たちはいったいどこからやって来たのかしら?』
とふと思ってしまいました。その種類は200にも及ぶそうです。

こんなに一面に咲くのですから、鳥や動物が運んできたわけではありませんよね。
もちろん、洪水で流れてきたわけでもないはずです。
つまり、どこかから何らかの方法で運ばれてきたわけではなくて、
ずっとこの砂漠の砂の中に、花たちは眠っていたということなのですよね。

十数年も全く雨が降らず、時にはそれが40年に及んでも、
花たちはじっと灼熱の砂の中で命を保っていた・・・
もしかするとその長い長いスパンでさえ、
この花たちにとってみれば折込み済みことなのかもしれません。

過酷な砂漠にも命の種が眠っている。
人間が「災害とか異常気象」と呼ぶ雨が、その種を芽吹かせる。

人間の都合をはずしてみれば、この世界で起きることの必然性のようなものが
見えてくるのかも知れない・・・と思いながら、
夢の中の光景のようなフラワリング・デザートの画像を眺めていました。

立て!卵

卵は立ちます。
もちろん、種も仕掛けもありません。

これまで何度かトライして、その度に成功してますので
そんなに難しいことではありません。

数日前、「こどもの方が成功しやすい」というような新聞記事を目にして、
久しぶりに(たぶん、10年以上)やってみようと思い立ちました。

以前と同じようにすぐに出来るだろうと、なんの気なしに始めたのですが、
今回はわりと苦戦しました。

指先に神経を集中して、ひたすら卵のバランスをとるだけなのですが、
なにせその一点がなかなか定まらない。

卵が前後左右にふらふらしている時間が長引くと、
雑念がどんどん湧いてきます。

その雑念を客観的に観察してみると・・・

『この卵、いびつなんじゃないかしら?』
『机が微妙にゆがんでいるのかも』
『殻の表面に小さな凸凹があるのかも』
『・・・なんでわたしこんなことやっているんだろう?』
『私今、こんなことやっている場合じゃないんじゃない?』
『あれもやらなきゃいけないのに・・・これもやらなきゃいけないのに・・・』

苦笑・・・ほとんどが出来ないことへの無意味ないいわけです。
こんな状態で、集中できる訳がありません。
卵はさらにふらふらになります。

こんな雑念をタラタラと抱く自分を観察して、笑ってしまいました。
何かができない時って、頭の中は大抵こんな状況なんだと思います。

そこで、そんな自分を戒めて、ひたすら指先に意識を集中。
できるとも、できないとも考えない。

すると、ほどなくして卵はすっと立ちました。
一度その一点を見つけると、卵は意外なほど安定して立っています。
そしてその感覚を指先が覚えると、次からは結構簡単に出来るようになります。

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物語の入り口

最寄り駅の駅前に、無人の小さな小屋が立っています。

看板にはタクシー会社の名前が書いてあって、電話番号まで記載されているのですが、
この小屋に人がいるところを今迄に一度も見たことがありません。

この街に引っ越してきた時にはもう、同じ状況でここに建っていましたから、
少なくとも10年以上は使われていないことになります。

そんなに長い間使われていなければ、普通はかなり傷んでしまいそうですが、
状態は当時からあまり変わっていないように見えます。
かといって、誰かが整備をしているふうでもありません。

今年も桜が咲き、散り、間もなく夏が巡ってきますが、
この小屋だけは、まるで時間が止まってしまったようにここにたたずんでいます。

何かに利用できそうで、見るたびにいろいろイメージが膨らむのだけれど、
一方で、このままずーっとこのままであって欲しいという望みがあります。

10年間もそんな思いで見つめてきたので、なんだか思い入れが強くなってしまい、
もしも鍵を開けてこの扉を開いたら、ここじゃないどこかの世界に繋がっていそう。

おそらく今後も、ずっと開くことのない物語の入り口です。

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「紙片の宇宙」本というアート

箱根のポーラ美術館で開催されていた
「紙片の宇宙 シャガール、マティス、ミロ、ダリの挿絵本」という企画展を観に行ってきました。
訪れたのは最終日前日、決して交通の便がよいとは言えない山の中にある美術館ですが、
往復に少し時間をかけても、それに充分値する見応えたっぷりの展示内容でした。

「挿絵本」は、「絵本」とは定義が異なります。
この企画展で展示されていたのは「芸術家による挿絵本」(リーヴル・ダルティスト)で、
主にフランスで19世紀末〜20世紀中頃にかけて制作された版画による書籍です。
画商や出版者の依頼を受けた画家たちが腕利きの版画職人とともに生み出した、
言わば本というスタイルの芸術作品なのです。

マルク・シャガール 『ダフニスとクロエ』、アンリ・マティス 『ジャズ』
ジョアン・ミロ 『あらゆる試みに』・・・
これらの作品の実物を、一斉に見ることができるなんて・・・
ブラックやフジタ、ローランサンによる挿絵など
初めて目にする作品もたくさんあって、丸一日かけても時間が足りませんでした。

これらの挿絵本は、画家たちのある夢から生まれたものだそうです。
それは「より身近に絵画と向きあえる作品をつくること」
直筆の絵画は、この世界にたった一枚しかありません。
どこかの壁にかけられて、窓の中の景色のように眺められるだけです。
けれども本という形にすれば、たくさんの人が実際に手にとって作品を見ることができると、
画家たちは考えたのです。

とはいえこれらの挿絵本も、今となっては稀少な芸術作品。
美術館のガラスケースの中に収まってしまい、
誰もが手に取れるような、身近かなものではなくなってしまいました。

そのかわり印刷技術が進歩して、たくさんの人が気軽に多種多様な本を手できる時代になりました。
確かに、画家自身が制作したものに比べたら見劣りがするかもしれませんが、
当時でしたら出会うことすらできなかった世界中のアート作品に、
本を通して触れることができるのです。

残念ながら現在ではデジタル技術の台頭で、当時活躍していた版画職人のような存在は激減し、
まるで工業製品のような本が大量に流通しています。
それでも、書籍制作に関わる人たちの情熱が失われたわけではありません。
その在り方は変わりましたが、制作に携わる人たちの高い意識によって、
作家が伝えようとするものを最大限に具現化した質の高い書籍が存在します。

書籍という媒体そのものが消失しない限り、美しい本を作ろうとする人たちは必ず存在し続けることでしょう。
そして、そうした本はやはり、それ自体がれっきとしたアートなのだと思います。

「紙片の宇宙」展・ガイドムービー

花粉症なので?甘酒つくりました。

今年もしっかり花粉症になりました。
けれども例年より少しだけ症状が軽いような気がします。

実は知り合いにすすめられて、去年の末から体質改善のためにショ糖をなるべく食べないようにしているのですが、
もしかすると、それが功を奏しているのかもしれないと密かに期待しています。

まあ、いろいろな条件によって症状も変わってきますので、気のせいかもしれないんですけどね。

ちなみに「ショ糖」は、イコール砂糖ではありません。
糖にはいろいろな種類があって、オリゴ糖とか、麦芽糖とか、ブドウ糖とか・・・その中の一つにショ糖があります。
つまり、「ショ糖」を断つといっても甘いものが全てダメというわけではないので
『それなら楽勝だわ』と気軽に決意したのです。
その後よくよく調べてみたところ、一般的に使われているサトウキビを原料とする砂糖の組成は、
そのほとんどがショ糖であるということが分かりました。
製精度の高いグラニュー糖なんて、99%以上がショ糖です。
ってことは、砂糖が入っているものは食べられないということになります。
そして、砂糖が入っていない加工品が非常に少ないことを今更ながらに知って愕然としています。(苦笑)

甘いお菓子に砂糖が入っていることは簡単に予想がつきますが、
例えば調味料とか、ハムとか、かまぼことか、漬け物とか、そういう甘い味がしない食品でも、
裏書きをチェックすると、かなりの確率で入っていることが分かります。

う〜ん、こんなはずでは・・・と思いましたが、
それで体質改善できるのならと、あきらめずに実践することにしたのです。

まずは、ショ糖以外の糖を探しました。
なにせ、甘いものはやめられません。(笑)

一見大丈夫そうなオリゴ糖として売られている砂糖も、
オリゴ糖の割合が多いというだけで100%というわけではないようです。
いろいろ調べてみた結果、蜂蜜とか、麦芽糖の水飴とか、甘酒などがよいことが分かりました。

今では、お店に並んでいるお菓子はほとんど買いません。(偉いぞ!私)
最近、米麹を仕込んで自家製甘酒を作ったりしています。
そして、そうやって手間ひまかけた甘酒が、うっとりする程おいしいことを知りました。

お正月に神社に初詣に行ったりすると、甘酒が振る舞われていることがありますが、
ほとんどの場合は酒粕を水に溶いて白砂糖を混ぜたもので、米麹から作る本物の甘酒ではないようです。
うちの近所の神社で振る舞われるものも、こうして作られています。
私はこれがとても苦手で、子供の頃から一度も最後まで飲み切れたことがないのです。

なので、最初は甘酒というものに「あまりおいしくないの」という思い込みがありましたが、
今回のことを機に、自分の勉強不足を思い知りました。

せっかくですから、もうちょっといろいろ研究してみたいと思っています。

身体がポンコツだと大変ですが、結構お勉強にはなります。

今年も、春がやってきました。

窓から見えるコブシの花が満開です。
鳥たちが、巣作りのための枝をくわえて飛んでいます。

今年も、春がやってきました。

 

あれから、4年が経ったのですね。

被災地の復興はまだまだ進んでいないのに、他の地域の人たちの中では、
すでに災害の記憶が風化し始めているといわれます。

私たちには、決して忘れてはならないことがたくさんありますが、
その一方で、意識を未来に向けなければ生きていけないという現実もあります。

 

今年も、春がやってきました。

あの日、当たり前のことなど何もないのだと知りました。

どんなに時が経っても、このことだけは忘れてはならないのだと思っています。

見えている世界は・・・

最近、一枚のドレスの画像がネット上で大きな話題になりました。
見る人によって色が違って見えるというのです。

http://swiked.tumblr.com/post/112073818575/guys-please-help-me-is-this-dress-white-and

「青と黒」に見えるという人もいれば、
「白と金」に見えるという人もいて、
中には、見る時間によって色が違うという人もいるんだとか。

ちなみに私には「少し暗い所に置かれた白と金のドレス」に見えます。
何度見直しても、やっぱり白と金にしか見えません。

同じように、どう見ても青と黒にしか見えないという人もいて、
『いったいどうなっているの?』と世界中の人が首を傾げているのです。

ちょっと調べてみると、
「後ろから光を浴びている逆光の画像」と認識すると白と金、
「全体が白飛びしている画像」と認識すると青と黒、
に見えるそうで、つまり脳がどう認識したかによって見え方が違ってくるということらしいです。
そして、一度脳がそう認識してしまうと、なかなか他の色には見えなくなってしまうのだそうです。

実際のドレスの色は青と黒なのだそうですが、
見え方の理屈を理解しても、実際の色を知っても、やっぱり私には白と金にしか見えないないんですよね〜。

今回のことに限らず、自分がそうだと疑わないものが、実は間違っているかもしれない・・・
そう思うと、なんとも心もとない気持ちになります。

すべては、脳が認識したように見えている。
そして、認識したものを人は現実と捉えて生きてゆく。
同じ世界に生きていても、同じものを見ていても、人によって現実は異なるということなのですね。

見えている世界の不確実性を、再認識させてくれる出来事でした。

「絵になる本」

今更ですが、プレシャス・ブックスのディスクリプション(紹介文)は
「絵のある本と、絵になる本のBOOK SHOP」。

なんか・・・わかりずらいかもしれませんねぇ。

「絵のある本」なんていういい方をしていますが、つまり、絵本や画集や図鑑や、とにかく図版がある本という意味。
「絵本」といってしまうと、児童書に限られたイメージになってしまうので、あえてこういう言い方にしています。

で、「絵になる本」。

「絵になる本」といったら、どんなイメージを持ちますか?

装丁が美しい本。
そこに置いておくだけで、存在感を放つ本。
絵やオブジェのように飾っておきたくなる本。
見るだけで、ときめく本。

本はもちろん、その内容が大事です。
けれども、本も”もの”ですから、”もの”としての価値もあります。
そして、その本の”もの”としての印象を決めるのは、やはり装幀です。

大まかに言えば、「絵になる本」は、魅力的な装幀の本ということになります。
さらに、時がその本に個々の味わいを加えてゆきます。

本は主にその内容で評価されるので、文章やイラストだけが注目されがちですが、
装幀もその本の価値を決める不可欠な要素なのです。
(もちろん、大切な要素は他にもたくさんありますが)
実際、装幀が変わるだけで同じ内容の本でも売り上げが大きく変わったりします。

私は、内容が素晴らしい本、図版が魅力的な本などと同じように、
美しい装幀の本にも惹かれます。
隅々にまでデザイナーや装幀家の美意識が行き渡った本を見ると、気持ちが引き締まります。
また魅力的なカバー・デザインの本は、お気に入りの絵や雑貨と同じように、
ただそこにあるだけで気持ちを豊かにしてくれます。

 

近日中に、「絵になる本」というカテゴリーを新設しようと思います。

「絵になる本」のカテゴリーでは、国やジャンルに関わらず、
カバー・デザインが魅力的な本や、装幀が美しい本をご紹介していきます。

にんじんって、なに色?

お鍋を食べていて、ふと
『にんじんの色きれいだな〜』って思ったんです。
それで、なんとなくこの色はなんていう色なんだろうと考えたのですが、
しっくりくる色の名前が思いつきませんでした。

だいだい色?
オレンジ色?

だいだいもオレンジも、他の食べ物の名前です。
にんじんを指差して『オレンジ』だって言っているみたいで、
なんとなくしっくりきません。

ここからはもう、理屈の世界になってしまうのですが、
そもそも、「赤と黄の間の色」には色そのものの名前がないから
こういうことになってしまうんですよね。

前にもコラムに書きました。

『だいだい色ってどんな色?』
http://preciousbooks.blog26.fc2.com/blog-entry-554.html

もしも青という色の名前がなかったら、
空を映す海の色も、空色と表現したりするのでしょうか?

にんじんの色、なんて呼べばしっくりきますかね?

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この際『にんじん色』でいいのかもしれません。
にんじんにも、いろいろな色がありますが、全部ひっくるめて『にんじん色』。
ちょうど、空色がそうであるように。

本来、“もの”の色はその“もの”の名前でしか表現できないものなのかもしれません。

店主B、ヒッチハイカーを拾う。

ヒッチハイクという言葉は誰でも知っていますが、日本ではあまり見かけませんよね。
うちは車で遠距離移動することが多いのですが、
これまで実際にヒッチハイカーを見かけたことはありませんでした。

ところが、先日店主Bが車で日帰り出張した日に拾ったんだそうです。大学生のヒッチハイカーを。
東海道を下って掛川という街に向かう途中、沼津という街でその大学生を乗せて、
約2時間半程一緒にドライブをしたとのこと。
彼の最終目的地は長崎で、一週間でたどり着ければいいと言っていたそうです。

大学で何を学んでいるか、今の社会問題について、政治について、
今時の大学生について、ヒッチハイクのコツについて・・・・
それはそれはたくさんの話をして、
『こんな大学生がいるなら、日本の未来にも希望が持てる』と店主Bは思ったそうです。
青春パワーを分けてもらったのか、出張で疲れているはずの店主Bもなんだかイキイキ。

若い世代の投票率が低い、なんていうニュースを見ると、
『おいおい大丈夫か?日本の若者たちよ』なんていう気持ちにもなりますが、
何でも十把一絡げにするのは良くないですね。

うちは時々、こういう旅人と出会うのですが、
それはやっぱり、自分たちがかつて同じように旅をした経験があるからなのだと思います。

旅先で、見ず知らずの人から受けた恩は数えきれません。
突然現れた身元も知れぬ私たちに、ただただ良心を示し、何の見返りも求めずに去っていった人々・・・
それらの思い出は、かけがえのない宝物です。
『少しでも恩返しをしたい』と素直にそう思います。
だから、店主Bも迷うことなくヒッチハイカーを乗せたのです。

ヒッチハイクをするリスク、ヒッチハイカーを乗せるリスク、が先に論じられる世の中です。
こんな時代ですからね、それはもう、ごもっとも。
けれども、どんなことにもリスクはつきもので、
リスクだけを考えたら得られないものや、失ってしまうものもあるのです。
そもそも旅とは、そういうものなのですよね。

こんな時いつも思うのですが、恩返しのつもりで、実は得るものの方が多かったりします。

子供は子供だった頃

子供は子供だった頃
いつも不思議だった
なぜ 僕は僕で 君でない?
なぜ 僕はここにいて そこにいない?
時の始まりは いつ?
宇宙の果ては どこ?
この世で生きるのは ただの夢
見るもの 聞くもの 嗅ぐものは
この世の前の世の幻
悪があるって ほんと?
いったい どんなだった
僕が僕になる前は?
僕が僕でなくなった後
いったい僕は 何になる?

ずーっとずーっと昔に観た映画「ベルリン・天使の詩」に挿入されていた詩の一部。
何故だかこの詩を、今でも時々思い出します。

私も子供だった頃、不思議でした。
『時の始まりは いつ? 宇宙の果ては どこ?』
『僕が僕になる前は? 僕が僕でなくなった後 いったい僕は 何になる?』

だけど
『なぜ 僕は僕で 君でない? なぜ 僕はここにいて そこにいない?』と感じたのは
10代になってからのこと。
といっても、今となっては10代も充分に子供です。

最近、特に脳裏に浮かぶのが
『悪があるって ほんと? いったい どんなだった』
という一節。

子供の頃、突然何かを知って戸惑うことがありました。
例えば、生きているものはみんないつか死んでしまうのだということ・・・とか。
けれども、『悪があるって ほんと?』と感じた記憶が、私にはありません。
あったのは、親から躾けられた「いいこと わるいこと」の感覚と、
本やテレビから伝わってくる「悪ものと正義のみかた」のイメージ。
二元論的な善悪の定義は、いつの頃からかなんとなくインプットされていたのです。
大人になってからはむしろ、その定義の仕方が一層分からなくなりました。
もしも子供の頃の自分に
『悪があるって ほんと? いったい どんなだった』
と質問されたら、なんて答えたらいいのでしょう?

『この世で生きるのは ただの夢 見るもの 聞くもの 嗅ぐものは この世の前の世の幻』
この一節に至っては、とても子供が感じられるようなことではないと思ってしまいます。
もしも全ての大人がそれを感得できたなら、世界は変わるかもしれませんね。

けれどもその前に、大人と子供の境目すら分からない私です。

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